0章 彼女の正義 (1/9) ~ ふざけた賭け

0 彼女の正義

 

 

暗い洞窟の中を、人魂のように光がさまよっている。

揺れる小舟にふせったまま、リュンケウスは仲間の掲げ持った松明を、息も絶え絶えに眺めていた。まるで臨終に幻覚を見ている老人のよう。でも、自分はまだ若いのだ。これから戦わなくちゃならない。ただ最悪の船旅の直後で、一瞬意識が遠くなっただけなのだ。

外の海は大荒れで、岸壁を叩く波の音が爆音のようにつたわってくる。鳴り響く強風が、亡者の叫びのように聞こえた。

「おい、なにぼけっとしてんだよ」

一足先に降りて松明を持っていた仲間が、じれったそうに急かした。狭い入り江の奥で、黒々とうねる波が、粗末な小舟を揺らしつづけている。リュンケウスは小舟の縁にしがみついて、なんとか声を絞りだした。

「船酔いして……」

這いあがろうと岸に手をのばしたとき、入り江に高波が押しよせて、次の瞬間には、小舟ごとひっくり返ってしまった。

リュンケウスは仲間の片手で軽々と引きあげられ、濡れネズミのような体を四つん這いになって支えた。連れのいかつい革靴が鼻先にあったが、抱え起こしてくれる気配はない。つきあいが長いから、顔を見なくてもわかるのだ。

グレナデンは腰にさげた剣が細剣に見えるほど堂々たる体つきで、丸太のように太いむき出しの腕についた水気を払いつつ、みじめな子分を見おろしていた。逆立った髪は、もう片方の手に持った松明と同じ、烈火のような赤毛だ。赤い火がごつごつと湿って黒ずんだ岩肌を照らし、少し大きすぎる男の影を投げかけている。

まだ塩水が鼻と口に残って激しくせきこんでいると、ついでに吐き気をもよおして、リュンケウスはその場で吐いてしまった。

「勘弁しろよ、まぬけっ」

グレナデンはひっかからないように飛び退き、顔をしかめて舌打ちした。その様子を見て、先に船を降りて奥のほうにいた若い娘が、駆けよってきた。

「仕方ないじゃない、体質なんだから」

そう言って、心配そうにかがみこんで「大丈夫?」と背中をさすってくれる。白くて細い象牙のような指だ。品のいい細剣を腰にさしていたが、使いこんでいないのは、この手を見ればわかる。

もし、ここに彼女と二人きりなら、もっとこの親切を素直に受けとれていたかもしれない。が、隣ではグレナデンが腕組みして、あきれた表情でこっちを見ている。こんな母親のようにおおげさに介抱されていたのでは、ますます自分が情けなく見えるような気がして、嫌な感じだ。

リュンケウスは「もう大丈夫」と言い、イスノメドラの手から逃れるように、無理を押して立ちあがった。濡れて顔に張りついたうっとうしい金髪を、邪魔にならないようになでつける。一瞬血の気が引いて、めまいがした。

それから、意識してしっかりと背筋をのばすと、人使いの荒い相棒に不満をこめて言い返した。

「こんな日に船出なんて、運が悪かったら着く前に死んでますよ」

グレナデンはまったく痛くもかゆくもない様子だ。それどころか、相手が臆病風に吹かれるのをからかうように、少し笑った。

「ちゃんと三人とも無事に着いたんだからいいだろ? それにキルクークだって、こんな日に船でやってくる奴がいるとは思わないだろうし。嵐のせいで、物音も聞こえにくい」

 

この先の古城には、キルクークという名の、肌の黒い魔法使いが住みついている。なんでも、港街の住人をさらっては食う、と噂だ。
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0章 彼女の正義 (2/9) ~ 暗中模索

 

そうこうしているうちに、ようやく古城の裏門にたどり着いた。石柱の陰から様子をうかがうと、二足歩行の化け物が四体、のっそりとした巨体を左右に揺らしながら、背の高い黒い扉の前をうろついている。普通の男よりも頭二つほどは大柄だろうか。潰れた鼻と牙はイノシシのようで、湿った皮膚の所々が、醜いイボに覆われていた。手にはプリモス製の銃が握られている。

この怪物たちはキルクークの手先だ。知能は低くて動きは緩慢だが、打たれ強くて怪力だった。それ自体に生物としての自主性はなく、脳に寄生している別の生物を通して、キルクークの命令に従っているようだ、と学者たちは説明していた。

「一気に突っこむぞ。なるべく頭をねらえ。頭の奇生生物を殺らないと、体が死んでも動く」

グレナデンが言い、三人は剣を抜いた。怪物たちはじっとしていられないのか、あまり目的のなさそうな愚鈍そうな動きをつづけている。

「今だ!」

四体とも目を離した隙に、一斉に距離をつめて襲いかかった。炎の魔法が使えるグレナデンは、四体の怪物に火を放ち、頭部をねらって剣を振り下ろした。紅蓮の炎が爆ぜて、目の前を明るくした。

イスノメドラも細剣を手に、不慣れを感じさせないような器用さで敵を牽制しながら、魔法を放っている。彼女は稲妻を操ることができる。青い電光が剣先から、指先から、宙を舞うように揺れる髪の先からもほとばしった。

リュンケウスは残念ながら魔法は使えない。剣だけを頼みに、グレナデンに銃口をむけて撃とうとしていた怪物を、背後から斬りつけた。斬られた怪物はのけぞって、銃を乱射した。紫色の光の筋が銃口から一直線に走り、近くにいた別の怪物の両腕が切断される。そして今度は、そちらの怪物がのばした太い舌が、リュンケウスの体に蛇のように巻きついてきた。捕らえた獲物をひょいと持ちあげると、牙の生えたガマガエルのように大口を開く。

飲みこまれる、と思ったとき、イスノメドラの放った青白い電光が、すんでのところで怪物の脳天を直撃した。リュンケウスは地面に叩きつけられ、背中を斬りつけてとどめを刺し損ねた敵の頭を、グレナデンが叩き斬った。そして、

「頭をねらえって言ったろ!? 聞いてねえのかよ!」

ねぎらいの言葉はかけずに、怒鳴りちらした。

「……すいません」

自分がとっさに斬らなければ、おまえは撃たれてた──そう言いたいのをこらえて、リュンケウスは謝った。

「まったく」と、グレナデンは舌打ちした。

イスノメドラは門の扉を押してみて言った。

「閉まってるわ」

奇妙な紋様が彫りこまれたプリモスの扉に、管やら歯車やらが連結されている。三人で試しに体当たりしてみたが、鉄壁を押しているのと変わらなかった。グレナデンが火炎を投げつけて扉を破壊しようとしても、傷一つつかない。

「畜生っ」

と、グレナデンは鈍く黒光りする扉を蹴飛ばしてから、痛そうにつま先を押さえて跳ねまわった。リュンケウスはそれを見て含み笑った。

イスノメドラは我関せず、複雑な歯車や管をたんねんに調べている。

「動力がわからないけど……この扉、機械仕掛けみたい。ちょっと耳ふさいで下がってて」

男二人は顔を見合わせ、言われた通り耳をふさいで後ろに下がった。

彼女は天にむかって両手を広げた。

「神様! 私に力を……!」

そう叫ぶと、暗雲うずまく夜空から、大扉にむかって雷が落ちた。目もくらむような火花が散り、すさまじい轟音が鳴る。リュンケウスが思わずつむった目を開けると、歯車がひとりでにまわりだし、重々しい扉が左右に滑るよう開いていった。

「嘘だろ……」
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0章 彼女の正義 (3/9) ~ 科学者

 

次に水面から顔を出したとき、リュンケウスが最初に目にしたのは、漆黒の中でほの暗く光る紫色の明かりだった。

天井に紫の照明がついていて、中の様子がわずかながらわかる。また行き止まりのせまい空間で、壁になにかついていたので、よくわからないが押してみた。

すると、四角い小部屋自体が音を立てて上に昇りはじめ、止まると同時に来たのと反対側の壁が開いて、別の部屋に出た。足もとの水が、どっと外に流れ出た。

そこにも紫に光る繭のような照明がばらばらに並んでいて、がらんとしているが、不可解な古代の紋様が壁中に刻まれていた。部屋は廊下につながっていて、その先から、繭の紫色の光とは違う、炎のような明かりが漏れているのに気づいた。

リュンケウスは足音を立てないように近づいていき、明かりの漏れている部屋をのぞき見た。

そこはドーム型の天井を持った広間で、壁際が大小様々なロウソクで、ひしめきあうように埋めつくされていた。この城の中ではめずらしく、レンズのような円い天窓が規則的に並び、外で稲妻が走っているのが見える。

広間の中央には、銀色のフードつきのマントを、頭からすっぽりかぶった人物が立っていた。そのマントは、今まで見たどんな素材とも違い、まるで薄くてしなやかな鏡のようだった。ひだが入って歪んだ鏡面にまわりの風景が映りこみ、ロウソクの灯をギラギラと反射している。

その人物の両脇には、生け贄を捧げる祭壇のような台が二つあった。台の上には、人間の女──眠っているように見えるが、生きているのか死んでいるのかはわからない──と、脳みそのない空っぽ頭の毛むくじゃらの怪物が横たわっている。二つの体からは細い管が何本ものび、正体不明の複雑な機械につながっている。はめ込まれた四角いガラスの表面に、光る線が波打ち、小さな記号があらわれては消えた。

マントの人物は手袋をつけた手で、女の頭蓋骨の上蓋をはずし、中の脳を取り出して、怪物の頭の空洞に移植した。リュンケウスは恐いもの見たさで、その一部始終をばっちり見届けてしまった。が、見たあとで気分が悪くなった。マントの中からちらりと腕が見え、男の肌が浅黒いのも確認できた。黒い肌の男。あれが、キルクークなのか。

リュンケウスは賞金首らしき男に慎重にねらいを定め、銃の引き金を引いた。紫色の光線が、男の胸のあたりを横切る。

当たった! ──が、男は倒れず、光線でこちらの存在に気づいて、なんともないような顔で振りむいた。まっ二つになるはずなのに……!

男は両手を赤く光らせ、魔法で皿のような光の円盤を作って、つづけざまにいくつも投げてきた。入り口の縁に当たり、赤い光の破片が飛び散る。リュンケウスはあえてその中に身を投じた。すかさず、豹のような身のこなしで剣を抜きながら、男めがけて一直線に走っていく。

その魔法は、自分には痛くもかゆくもない、とわかっていたからだ。

それどころか、グレナデンの炎だろうと、イスノメドラの稲妻だろうと、どんな強力な魔法であっても、リュンケウスの体を傷つけることはできない。それが自分では魔力をまったく持っていないかわりに、リュンケウスが恵まれたとても珍しい特殊な体質だった。

マントの男は剣を突きつけられ、無駄な魔法を放つのをやめた。フードの下に驚愕の表情が見える。

「おまえ、魔法が効かないのか!?」
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0章 彼女の正義 (4/9) ~ 栄光の瞬間

 

 

外に出た頃には夜明け前で、風と雷はやみ、雨だけがパラパラと降りつづいていた。街に着くと、朝起きだすのが遅いトゥミスの住人たちは、まだ寝静まっていた。霧のような雨が、青い木戸を閉ざした白壁の家々と、石畳を濡らしている。

グレナデンは宮殿にむかう道すがら、片手で生首を掲げて、「俺たちがキルクークを倒した!」と大声で触れまわった。三人が通ると、通りぞいの家の窓が次々と開いていく。驚きと喜びの表情をした人々が顔を出し、鏡のマントを身にまとって首を掲げたグレナデンに注目する──リュンケウスではなく。

宮殿で執政官に首を献上し、階段状の議席にかこまれた円形の議場の中央で、元老院議員たちにことの顛末を説明した。

リュンケウスはキルクークに持ちかけられた取り引きのことや、魔法の石のことや、発明品のことは口にしなかった。かわりに、強大なる悪と、とてつもない大乱闘を繰り広げたかのように、雄弁に話をふくらませた。

さすがのグレナデンも自分のいなかったときの話には口を出せず、この計画を提案したのは自分だ、とか、案内役のイスノメドラを連れて行くと決めたのも自分であり、自分の裁量がなければ、ほかの二人だけでは今回のような大きなことは成し遂げられなかっただろう、ということばかり必死に強調していた。

イスノメドラはというと、意に反して法廷の真ん中でさらし者にされた証人のように塞ぎこんだまま、あまり話さず、できるだけ早くこの場から逃げだしたいという感じだった。

そんな風にして報告が済むと、さっそく、勝利を祝う宴が開かれた。色とりどりのケシの花で彩られた大理石の広間に、銀の皿にのった食べきれないほどのご馳走が運びこまれ、三人は広めの台座に刺繍の綿入れを敷き詰めただれからでも見える特等席に座らされた。

貴族ご用達の芸人たちが、威勢のいい音楽や踊りを披露し、酒は飲み放題、美女も呼び放題だ。色鮮やかなガラスや、べっ甲の首飾りを何重にも巻いた半裸の踊り子が、差し出された金の杯に、ブドウの美酒を注いでまわっている。

イスノメドラは気分が悪いと言って、すぐに席を立ってしまったが、賞金稼ぎの男二人は戦いの興奮がさめやらず、一睡もしていなくても全然疲れを感じなかった。

俺が求めていたのは、これなんだ。

楽しげな音色の飛びかう中、リュンケウスは金杯を片手に、酔って柔らかなソファーに身を沈め、夢見心地でそう思った。

広間の壁面には、この世の楽園が描かれ、高い天井を支える優美な柱には、一つとして装飾の施されていないものはない。トゥミス中で一番贅をつくしたと思われる部屋で、主賓としてもてなされ、欲しかったものすべてが一度に手に入ったかのようだった。かたわらにはきらびやかに身を飾った女が、撫でられるのを待っている猫のようにはべり、手をのばすと薄い絹のなめらかな感触がして、妖しい香水が鼻孔をくすぐった。

しばらくしてイスノメドラが議員に呼び出され、三人一緒にバルコニーに出ると、何千人ものトゥミス市民が、広場を埋めつくしていた。飲み騒いでいるうちに夜は明けていて、昨夜の嵐が嘘のような青空が広がっていた。

三人がビロードのカーテンから顔を出したのと同時に、白い鳩が爽やかな朝の日射しの中に放たれ、歓声が湧き起こった。噂は短時間のうちに突風のごとく街を駆け抜け、みな英雄たちの勇姿を一目見ようと押しかけてきたのだ。

「トゥミスに栄光あれ!」

ほかの議員たちと同じく歳をとった執政官が、若い三人と肩を並べてそう叫ぶと、さらに大地を揺るがすような歓声があがった。召使いが脇で花びらをまく。見渡す限り、ひらめく花びらのむこうから、名前も知らない大勢の人々が、喜びと尊敬を込めた眼差しでこちらを見上げていた。これまで見下されたことは何度もあったが、そうやって仰ぎ見られた経験はない。

まるで目に入るすべてのものが自分を祝福し、黄金に光り輝いているようだった。

ぼんやりとした酒の酔いが一気にさめた。それどころか、これまでの自分の人生そのものが、うすぼんやりした冴えない夢のように感じられた。さっきまでの華やかな宴も、この景色の前ではくすんでしまう。土の中で身を縮めてじっと地上に出る日を待ちつづける蝉のように、息をひそめて半眠りでいた、長い長いかりそめの日々が終わり、今やっと日の光を見て、本物の人生が動きだした気がした。

これだ──俺の胸を掻き立てるもの! 俺が本当に欲しかったものは……!
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0章 彼女の正義 (5/9) ~ 思いがけない恋

 

  * * *

 

古城から戻ってきてからというもの、イスノメドラは毎日のように、グレナデンと顔をあわせるようになった。

「戦った疲れがとれたか様子見に」「住む場所を変えた」「もらい物がおいしかったので、お裾分けに」と、彼はなにかと理由をつけては、イスノメドラが父の知りあいの好意で安く借りている共同住宅の部屋まで押しかけてきて、戸口で機嫌のいい笑顔を振りまいては、さらっと二三おもしろそうな街の噂話などをして去っていく。街を歩いていて、偶然のように声をかけてくることもある。そして去り際には、決まりきったあいさつのように「今度どこかで食事でも?」と、つけ加えるのだった。

距離を縮めようとしているのはあからさまで、ろくに相手を知りもしないうちから、どこまで本気なのかと疑いたくなるくらい「かわいい」「好きだ」「会いたかった」と、なんのてらいもなく口にする。

イスノメドラは初め、この無遠慮でがっついた感じが苦手で、素っ気なくあしらっていた。しかし何度も顔をあわせるうちに、毎日顔を見るのが日課のようになってしまい、だんだんと根負けして、本当に腰を据えてむかいあったらどんな話をするつもりなのか、気にもなってきた。

グレナデンは得意げに、俺は太鼓を上手に叩き、トナカイや熊をナイフ一本で綺麗に解体することができ、様々な形の便利な紐の結び方を知っている、と言う。自分ではそれが魅力の一つだと思っているようだが、都会育ちのイスノメドラは、そんな自慢をされても正直どう反応したらいいかわからなかった。……自分がこんな人と会話が弾むとは、到底思えないのだが……。

 

やってきたのは、肉料理がうまいと最近街で評判の庶民的な料理屋だった。ガラスや銀器ではなく、素焼きの杯や木のジョッキで酒がだされ、日々の労働で汗をかいた人々の頭上に、肉を焼く煙臭さが充満しているような店である。下働きの少年が酔った大人のあいだをすり抜けながら、しゃぶり終わった骨を集めて忙しそうに立ち働き、入り口に立っただけで体臭と料理とタバコのむっとする匂いが押しよせてくる。

イスノメドラはいつものように、そんな店にいても浮かないくらい素朴な身なりをしていたが、グレナデンの立派な体格と目立つ赤毛のせいで、店の手押し戸を開けた途端、宵の口で混みあっている店内にいた客たちの視線が一斉に集まってしまった。

グレナデンはカウンターの奥にいた太った女将にむかって、さっそく酒を注文した。

「ワインを二樽」

「二樽!? ……二杯じゃなくて?」女将が驚いて聞き返すと、グレナデンはカウンターに金貨を置き、「あそこのテーブルに運んでくれ」と真ん中あたりの席を指差した。

まさか、そんなにたくさん飲むつもりなのだろうか? と、あっ気にとられているうちに樽が運びこまれ、グレナデンはそこで声を張りあげた。

「こいつは俺のおごりだ! 空になるまで好きなだけ飲んでくれ。ただし、飲んだ奴はしけた話はするな。それからここにいる宴会の女神に敬意を!」

イスノメドラは勢いに押されて樽の脇の椅子に座らされ、あれよあれよという間に、頭にブドウのつるの冠をのせられた。目立ちたがりやの酔っぱらいがさっそく進み出て、即席の女神の前でおどけた宮廷風のお辞儀をして最初の一杯にあずかると、どっと笑いが起こった。酔った船乗りの一団が、「いいぞ!」と野太い声をあげ、肉づきのいい遊女をかたわらに機嫌よく手笛を吹く。

一人が先陣をきると、ほかの客たちも次々と樽に群がり、もともとにぎわっていた店は、さらにお祭り騒ぎのような活気に包まれた。

「この店に音楽はないのか? だれか楽士を呼べ!」グレナデンはさらにその場を仕切り、大声で呼ばわった。

そんな余興がひと段落したところで、ようやく二人で女将のおすすめのウサギの煮込みや腸詰めなどを食べはじめた。しかし、店中の客がこちらの様子を気にして、ちらちら見てくるので、まともに食べた気がしない。ましてや自分に気があるとわかっている相手と、わざわざお近づきになるために食事するなんてことは、慣れていない。目の前の課題のために決死の覚悟をしているときは気にならなかったが、こうしてむかいあうと、グレナデンの容姿がほかの人々と比べて際立っていることも意識してしまい、ますます緊張に拍車がかかった。
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0章 彼女の正義 (6/9) ~ 甘い生活

 

 

しかし新しい暮らしが実際にはじまってみると、イスノメドラは一度は捨てたはずの豪奢な生活にまた戻ってしまっていた。庭師の手入れする美しい庭園と、めずらしい魚を泳がせた小さな泉のある豪邸に住み、食事は毎回住みこみの料理人が作ってくれるものを食べる。グレナデンの持ち前の明るさのおかげで新婚生活は楽しかったが、その暮らしぶりはイスノメドラにとっては不本意なものだった。

でもすべてグレナデンの金で賄われているため、今度はなにもかも勝手に売り飛ばして慈善事業に費やすわけにはいかない。結果、自然の成りゆきで、夫の成り金趣味につきあうことになった。彼は浪費家で、なにをするにもお金の使い方が半端じゃない。普通に暮らせば一生暮らしていける財産があっても、この調子だと一生はもちそうになかった。イスノメドラは進んで贅沢をすることこそなかったが、もう以前のようにボロを着て道端で野宿することはなくなっていた。

 

ある夜、イスノメドラが「お金はもっと、困っている人達のために役立てるべきだ」と言うと、グレナデンはこう言った。

「君は他人のことより、もっと自分の幸せのことを考えたほうがいい。前に全財産を投げ打って恵んでやった結果どうなった? やつらは君からパンをもらったって、それを糧に自分の力で明日のパンを手に入れようとするどころか、明日の分のパンもよこせとせびるだけだった。だれもが君の純粋さに胸を打たれて生き方を変えるとは限らないんだよ。なにをされたって感謝しない奴は感謝しないし、もっと悪くなると、俺が不幸なのはおまえの力不足のせいだ、とでもいわんばかりだ。しまいには、恩を仇で返して踏み台にしようとするやつもいる」

グレナデンは腹立たしげだった。恩を仇で……の後は、イスノメドラを〝乞食の女王〟と呼んだ輩に対して、というよりも、リュンケウスのことを言っているようだった。彼は今、自分たちよりもずっと小さな家で地味に暮らしている。

「また前みたいにパンを配り歩いたって、解決できるのは、何人かのその日の飯の問題だけだ。1000 万シグを 1000 万人に1シグずつ配ったって、なにも変わらない。もっと確実に人の運命を変えるにはどうしたらいいか、わかるか?」

「どうするの?」

「ふさわしい人間を一人選んで1000 万シグやれば、そいつの人生は変わるだろう」

「ふさわしい人間?」イスノメドラは繰り返した。

「俺みたいにね」

イスノメドラは象牙色の繻子の夜着一枚で、広いベッドに横たわり、夫の浮かべる魅惑的な笑みを見あげていた。彼の背後には、ゆるやかな曲線を描いた白い天井があり、その天井いっぱいに、淡い光の網がゆらゆらと広がっているのが見えた。寝室の半分がプールになっていて、水面の波紋がロウソクの光を反射しているのだ。

眠りにつくまでのあいだ、よくこうして光の網の下で、たがいに触れあいながら話したものだった。ベッド脇にあるモザイク模様の小さな丸テーブルの上には、透けるほど薄く削られた瑪瑙の杯があり、飲みかけのワインが残っている。イスノメドラが毎晩酔うほど飲むようになったのは、彼とつきあうようになってからのことだった。

「俺は森を出たとき、金なんか1シグも持ってなかった。そこらの物乞いより貧乏さ。でも、今ここにいる。そのために必要なことをしてきたからだ。人の手を借りたこともあるが、俺もそいつらが得するようになにかしてやったし、君みたいな人に助けてもらいたいなんて思って、お恵みを待ってたことなんかない。自分のけじめは自分でつけるもんだ」

それから一呼吸置いて、

「放っておいたって、自然が人間をふるいにかけてくれる。芽が出る種と、出ない種。──出ない種はそこで終わるのが運命だ」

そう言い放つグレナデンの瞳は、氷山の氷のように青く冷え冷えとしていた。それから少し声をやわらげ、

「君は今だって俺の支えになってくれてる。俺の女神様だ。悪く言ったやつらが許せないよ」と言った。

以前なら、他人からこんなことを言われても、怒って猛抗議していたかもしれない。でも今は反論できるだけの確信を失ってしまい、そうしたいとも思えなかった。自分自身、彼らのせいで自分がとても傷つき、疲れていることを自覚していた。純粋に他人の役に立ちたいと思ってやったことが、惨憺たる結果に終わったのだ。

イスノメドラはテーブルに手をのばして、残りのワインを飲み干した。過去の苦汁を飲み干すように、熱い液体がのどを通り過ぎていく。杯に手をのばしたときに、夜着がはだけたが、見られているのを承知で、直さなかった。グレナデンのターコイズブルーの瞳が、こちらにむけられている。──意識するとそれだけで体が熱くなり、喜びを感じていいる自分に、戸惑った。

「君は綺麗だ」

彼に言われるようになるまで、自分が綺麗だなんて、考えたこともなかった。同じことを言われたことが、全然なかったわけじゃない。でもいちいち真に受けたりはしなかったし、自分が多少でもその気になって、こんな風に振る舞うようになるなんて夢にも思わなかった。
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0章 彼女の正義 (7/9) ~ 命の値段

 

 

結婚してから一年半ほどたったある日のこと。涼やかな風が吹き、日陰を作るためにそこかしこにあるぶどう棚の実が色づく秋のはじめのころだった。

スモモやイチジクがこんもりとつまれた朝市を、気晴らしに歩いていると、路地裏に人だかりができているのを見つけた。うめくような声が聞こえ、気になって人垣を掻き分けていくと、数人の男が、一人の浅黒い肌の男を袋叩きにしていた。

「この黒ブタ野郎! おまえらのせいで、女房が死んだんだ」

ぐったりと頭を垂れている色黒な男の両腕を、ほかの二人の男たちがつかみ、もう一人が頭や腹を殴る蹴るしていた。血が飛び散り、つかまれている男はもう自分で体を起こすことも、声をあげることもできないようだった。

「やめて!」

イスノメドラは人垣を掻きわけていって、暴行を加えている男の前に割って入った。

男はにらんできたが、相手の正体に気づいて目を丸くした。

「イスノメドラじゃないか」

周囲の人だかりもどよめいた。

「そこをどいてください」

「どうしてこんな酷いことするの?」

腕を支えていた男たちが投げ出したので、黒い肌の男はドサッと石畳の上に突っ伏した。目の前にいる首謀者らしき男は、わかりきったことを聞かれたような顔をした。

「どうしてって……、こいつがマヌ人だからさ。俺たちはマヌ人のおかげで、さんざんな目にあった。みんな、そうだろ?」

男は同意を求めて周囲を見まわした。

力つきて倒れている浅黒い肌の男は、ここよりもずっとずっと東にある大国、マヌ王国からやってきたのだ。とても歴史の長い国で、世界一美しい常夏の都があり、王は三つの目を持つ生き神だなんて、おとぎ話のような噂もある。マヌ人はみな一様に、浅黒い肌、黒い髪、黒い瞳をしていた。それは古城で悪事を働いていたキルクークと同じ特徴だ。彼の生首には、第三の目の入れ墨まであった。

取りかこんでいる人々の中には、男の言葉にうなずいている人もいたし、うしろめたいように目を背ける人も、事の成り行きをおもしろがって目を光らせている人もいた。

「マヌ人だからなんだって言うの? 悪事を働いたのはキルクークで、この人じゃない。肌の色が違くたって同じ人間でしょう」

イスノメドラは、加害者と傍観者にむかって呼びかけた。だが、人だかりの中心に進み出てマヌ人を助けようとする者はいない。男たちに反撃されるのを恐れているのだろうか?
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0章 彼女の正義 (8/9) ~ 知りたくもないこと

 

 

外は肌寒く、小雨が降りだしていて、リュンケウスは自前の馬車を呼んだ。

治局の重厚な石造りの建物を出るあいだ、だれに声をかけられることもなく、見られることもなかった。少し前までは死刑になるかもしれなかったのに、何事もなかったかのように簡単に出られた。交渉はすべてリュンケウスがやったので、治局のだれに賄賂を払ったのかも知らない。知りたくもなかった。

イスノメドラは放心したような表情で彼についていき、門の前に停められたガラス窓のついた二頭立ての馬車に乗りこんだ。

自分を支えていた芯が、急になくなってしまったような気分だった。とても自分が正しいことをしたとは思えない。帰ったらこのことをグレナデンにも話さなければならないのかと思うと、胃がキリキリ痛んでくる。真相を話しても、嘘の証言をそっくりそのまま話しても、どちらにしろ、辛辣な反応が目に浮かぶ。

帰りたくない。

そんな気持ちを察したかのように、リュンケウスは言った。

「グレナデンに今日のことを説明するのは大変だろうし、少しうちによって休んでいったら? 朝からろくなもの食べてないだろう。簡単なものならすぐ出せる。なんなら、うまい言い方を一緒に考えてもいいし」

「そうね……、そうさせてもらうわ」

最近は二人でいても、気が休まるどころか、気まずい思いをする一方だった。留置所にいた時間は長かったのに、グレナデンは来なかった。たぶん心配はしていないだろう。まだ日も暮れきっていないし、そんなに遅い時間じゃない。気持ちの整理もついていないし、このまま帰っても、ちゃんと話せる自信がなかった。

リュンケウスは、自分の家にむかうよう御者に声をかけた。

イスノメドラはビロードの座席に浅く腰掛け、水滴のついた窓ガラス越しに、ぼんやりと外を見ていた。雨に降られて小走りで動きまわっている通行人や、窓から洗濯物を取りこむ主婦の姿が見える。曲り角を自宅とは反対方向に曲がったのがわかり、胸をなでおろしている自分に気づく。

「私、あなたのことずっと誤解してた。もっと嫌な人かと思ってた」

そう本音をつぶやいて、隣にいるリュンケウスのほうにむきなおった。彼は驚いたようだ。

「俺がなにか悪いことした?」

グレナデンから悪口ばかり聞かされていたせいもあるのだが、実を言うと、古城で皮肉を言われたことが、ずっと引っかかっていたのだ。

でも、よくよく考えてみれば、あんな穴蔵の中に置き去りにされたら、だれだって恨み言の一つや二つ言いたくもなるだろう。彼にずっと恨まれているのかと思ってた。でも違った。私が見捨てたのに、彼は私が窮地に陥ったとき、助けにきてくれたのだ。

「なにも、嫌なことなんてしてない」と答えて首を振った。「私の勝手な思いこみよ。あなたはいい人だわ」

リュンケウスはそう言われて嬉しそうに笑った。

窓の外に鏡のマントをまとった兵士の姿が見えた。

「これ以上危険な兵器が外に流出しないように、黒い古城を買い取ったって話聞いたわ」

リュンケウスはもらった賞金のほとんどを、あの古城を買い取ることに使った。古城にはまだ、キルクークが掘り起こしたような、危険な古代の兵器が眠っている。それがトゥミス軍のものになれば戦争に使われることになるだろう。彼はそうなる前に、城を管理する権利を買い占め、兵器がトゥミス中に出まわることを防いだのだ。あのマントのように、いくつか流出してしまった知識もあるが、なんの手も打っていなかったら、今頃もっと大変なことになっていただろう。
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0章 彼女の正義 (9/9) ~血文字

 

 

それから何日ものあいだ、イスノメドラは部屋に閉じこもる生活をつづけた。くる日もくる日も、食事は召し使いにドアの前まで運ばせ、風呂には一回入ったきりで、トイレに行くとき以外はほとんど部屋の外に出ない。グレナデンはどこに行ってしまったのか、留置所を出た日以来一度も家に帰ってこなかった。

数日経ったころ、かわりにリュンケウスが訪ねてきたが、召し使いを戸口に立たせて、自分は顔を出さなかった。彼は『まずいことになったから、直接会って話したい』という伝言を残していった。そんな伝言を聞いても、今の自分にはまずいことだらけなので、なんとも思わなかった。内容を聞いたらもっと不快になるだけのような気がしたので、話したいとも思わない。もし、賄賂を払ってもみ消しをしたのが、だれかに知られたとかいうのだったら、私を逮捕して死刑にでもなんでもすればいいのだ。

そのうち心労がたたったのか、体調を崩して、一日中吐き気にまで蝕まれるようになった。

 

ある日、いつものようにふらふらトイレに歩いていくと、ひさしぶりにグレナデンの声が聞こえてきた。

懐かしさと不安で、胸がいっぱいになる。身の処し方は決めきれていなかった。なんて話をすればいいのか。彼の顔を見たら、思いつくかもしれない。体が震えそうだ。なにを期待していたのかは、自分でもはっきりはわかっていなかったが、たぶんなんでもいいから、優しい言葉をかけて欲しかったのだろう。私の心配事はただの考えすぎだと、思わせてくれるようななにかが起こってくれたらいい。

でも、声の聞こえてくる居間をのぞいて愕然としてしまった。グレナデンはまっ昼間から、長テーブルの上で、双子の女と抱きあっていた!

「信じられない」

妻の存在に気づくと、グレナデンは慌てふためくどころか舌打ちした。

「閉じこもってるんじゃなかったのかよ。こんなときに出てくるなんて」

「これはなんなの?」

普通なら怒るべきところなのかもしれないが、狐につままれたように現実感がない。あまりの衝撃に感覚が麻痺してしまい、持つべき感情も当然わき起こってこなかった。

「彼女だよ」

グレナデンは友人にでも紹介するようにそう言って、テーブルから降りた。

女たちは二人とも同じ顔で、まったく同じきまりの悪そうな表情をしている。育ちの良さそうな娘には見えなくて、ほとんど肌も露な薄布に身を包み、たぶんグレナデンにもらったであろう、黄金でできた手枷足枷のような金細工を四肢にはめている。かわいい顔と豊満な体以外にはなんの取り柄もなさそうな、どこにでもいる頭の悪そうな女。鬱と吐き気に蝕まれ、真冬の月のように青ざめたイスノメドラとは違い、二人の女は健康的で、弾けるような生気に満ちていた。

「ちょっと金取りに戻っただけだから、すぐ行く」彼は慌ただしく身なりを整えはじめた。一言の弁解もなく、留守中に起こったことについてたずねる気配もない。

「今までどこに行ってたの?」

「パナパナ島で波乗りしてきた。波が高くて楽しかった」

そう言って彼は、場にそぐわない脳天気な笑みを浮かべた。言われてみれば、こんがり日焼けしている。それから、プリモスの剣を収めたベルトを締め直しながら──グレナデンは今でも飾り剣ではなく、実戦用の剣を持ち歩いている──言い足した。

「俺がいないあいだ、いろいろゴタゴタしてたんだって? なんか、噂で聞いたんだけど、おまえが治局に賄賂を払ったとかどうとか。おまえにもそんなとこがあったなんて意外だったなあ」
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