3章 迷いの森 (1/8) ~ 王様に会えるのは光栄なことです

3 迷いの森

 

 

〈……と、いうことで、陛下がご祈祷からお戻りになられ次第謁見の間にお通ししますので、それまでに身なりを整えてこの部屋でお待ちください。時間になりましたら、お迎えにあがりますので〉

女官は早口のマヌ語で言い、着がえの清潔な服を応接室のソファーの上に置いた。

カラスはたじろいだ。早過ぎてなんて言っているのか、聞き取れなかったのだ。

〈もう一度、ゆっくり言ってください〉

あまりうまくないマヌ語で聞き返すと、年増の女官は、耳の遠い年寄りでも相手にするように大げさに口を動かし、

〈着がえて。王様と会うから〉と言った。

「はあ!?」

〈あなた方のことを話したら、陛下が直接話がしたいとおっしゃったのです〉

話が急すぎる! なんで? なんの話があるっていうんだ!? ──そう思ったが、トゥミス語で思ったことを、マヌ語に訳さなければならなかったので、口に出すのに時間がかかった。

普段使わない頭を酷使しているうちに、別の男の官吏が、勝手に背負い袋の中を探りはじめた。

「おい! 勝手に見んな」トゥミス語で言った。

官吏は背負い袋の中からナイフを取りだした。ドキッとした。滝壷で男を刺したやつだ。女官はそれを見て、

〈しばらく荷物はあずからせていただきます〉と言った。

取りあげられたら、ここから身動きとれないじゃないか。

〈それは武器じゃない。日用品だ〉

〈そうでしょうとも。でもここでは必要ありません。お帰りになるときに返しますから、ご安心を〉

〈俺はまだ謁見するなんて言ってないぞ〉

〈断るというのですか。なんと無礼な。光栄なことなのですよ。喜びなさい〉

一方的な言い分に、腹が立った。

〈喜べない〉

と言うと、女官は相手の言葉が通じないフリをした。

〈陛下ならティミトラ様の居所もご存じかもしれません。あなた方のためです〉

女官は当たりのよさそうな柔和な笑みを浮かべた。さっきまではどこで聞いても、『わかりかねます。お引き取りください』の一点張りだったのに。

〈国王陛下が俺みたいな貧乏旅行者に、なんの話があるっていうんです?〉

〈きっとティミトラ様のご家族と会って、彼女の功績を称えたいのです〉

そう言って、女官はお面が張りついたようにずっと微笑しつづけている。マヌ人ってやつは、おかしくもないのにやたらと微笑する。嘘臭くて気味が悪い。

〈なにかわからないことがあったら、係りの者におたずねください。ドアの外に立っておりますので。外に出るときも、ひと声おかけください。ララ様のことは私どもが探しますので、あまり宮殿の中をうろうろしないでくださいね〉

係りの者、というのはさっき袋の中を探っていた男だ。これじゃまるで監視だ。

〈ごゆっくり〉

女官は顔に微笑みを張りつけたまま、男の官吏とともに部屋を出ていった。
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3章 迷いの森 (2/8) ~ 赤毛の美女との夜

  * * *

 

 

四年前のことだ。

俺は呪術を使ってかろうじて食いつなぎながら、大陸中を転々と旅していた。転々としていた理由は二つある。一つはいろいろな土地を見てまわりたかったから。もう一つは、呪いをかけた相手から報復されないためだった。

マヌの田舎町をいくつかまわり、ヴァータナには二ヶ月くらい滞在していた。その日はたまたま気がむいて、行きつけになってた宿の近くの酒場ではなく、少し離れた別の酒場に入った。初めて入ったその店でも、いつものように安くて強い酒を一杯だけ頼んでちびちび飲んでると、赤い髪をした見知らぬ女が、チタニアなまりのトゥミス語で話しかけてきた。それがティミトラだった。

「ここ座っていい?」

彼女は俺の使ってた小さな丸テーブルに、さりげなく自分のデカンタを置いた。店の中は混み合っていたわではない。まだ宵の口だったので、空席だらけだった。

あまりニヤニヤすると格好悪いと思ったが、我慢しきれず頬がゆるんでしまう。

「なんでここに座りたいんだ?」

笑いをごまかしてからかうと、彼女は微笑を浮かべ、こう答えた。

「あなたが一人で寂しそうにしてたから」

切り返しの早さが、すごくクールだと思った。

「俺は別に寂しくはないよ。一人で飲むのが好きなんだ。君みたいな美人と飲むのはもっと好きだけど」

その頃は、どこの街でも、夜は一人で酒場に入るのが習慣になっていた。いつも酔いたいと思ってそうしていたわけではなかったし、そこでだれかと交流を持ちたいと思っていたわけでもない。夜な夜な酒場に入り浸っていたのは、宿にいてもすることがなかったからだ。せっかく知らない土地を旅しているのだから、殺風景な部屋の壁を見ているより、行く当てがなくても外に出て、その土地の空気を感じていたかった。その点、こうして夜遅くまでやってる店の中にいれば、地元の客に溶けこんで、好きなだけ物思いにふけったり、なにも考えないでいたり、ほかの客を観察したりして、時間を潰せる。

客はほかにマヌ人しかいなかったので、白い肌に赤毛のティミトラはとても目立っていた。俺の姿も、彼女から見たら目立ったのだろう。

「今まで何人に同じこと言ったの?」

「100人くらいかな? でも、君ほど綺麗な人なんてはじめて見た」

彼女はこれを聞いて笑った。

「じゃあ座っていい?」

「どうぞ」

テーブルの向かい側に座ったティミトラは、汗だくでほこりまみれの運動着みたいなものを着ていて、いかにもひと暴れしてきた後のようだった。でも中身はお世辞でもなんでもなく、本当に、ぞくっとするほど美人だった。顔にかかった長い髪をかきあげる仕草がいい。少し体を仰け反らせると、玉のような汗がうっすら上気した首筋を伝って、鎖骨のくぼみや肌けた胸元に流れていく。焼けた砂浜みたいに熱っぽい肌なのに、瞳はターコイズブルーで涼しげなのも魅力的だった。

俺は彼女の気をひきたくて、いつになく饒舌にこれまでの旅の話をはじめた。行った土地のこと、そこで出会ったもののこと。

大海原の船上に現われた蝶の大群。滝壷に水が落ちる前に全部霧になってしまう高い滝。くる日もくる日も黄昏のつづく白夜の街。水銀が湧きでる井戸。砂漠で釣った砂の中を泳ぐ魚。砂塵に浮かぶ赤い月。荒野の果てで旅人たちを惑わせる、蜃気楼の宮殿……。

多少誇張はあったが、こういうのは正確さよりおもしろさを優先するほうだ。『旅をしている』と言えば、『どこに行くのか』とか『どこから来たのか』とか、だれでもなにがしか聞いてくるので、特に女の子が相手なら、開口一番にそう言った。盛りあがる話題がそれだけでも、相手がその話に飽きるまで一緒にいることはなかったから、別に困りはしない。そのときも、おたがい故郷の言葉で話すのはひさしぶりだったせいもあって大い盛りあがった。

「ロマンチックねえ」

ティミトラは感心したようにつぶやき、

「いつまで旅をつづけるの?」

と聞いてきた。
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3章 迷いの森 (3/8) ~ 呪いの依頼

 

 

その三年後に、俺が魔の森にたどり着いたのは偶然だった。チタニアの酒場で、呪術の客待ちをするために店主にいくらか場所代を払い、隅のほうのテーブルで、わざと目につくように紙の人形を切り抜いていると、いがぐり頭でぶ厚い瓶底みたいな眼鏡をかけた中年男が、魔の森の魔女の話を持ちかけてきたのだった。

男は、俺がテーブルに置いた赤いろうそくや、看板がわりに立てかけている呪術に使う太鼓──丸い木枠に狼の皮を一枚張っただけの軽い太鼓だ──を、横目で品定めしながら行ったり来たりしたあと、口をへの字に結んだまま、前のめりに腰をおろした。レンズのせいでトンボのように目が大きく見え、たった今どこかから逃げ出してきたみたいに落ち着きのない様子だった。

その女の名はリチェといい、長いこと独り身の未亡人だ。夫を亡くした若くて美しいころ街からやってきて、そのままそこで萎びたババアになった。もともと都会生まれの育ちのいい入植者で、いろいろと貴重な知識を持っているので賢者と呼ばれることもあるが、本当は血も涙もない酷い女なのだという。

このあたりの先住民を見下していて土地の者とは話したがらず、力を貸してもらおうと森を訪れる者がいても、相手を値踏みして冷たくあしらう。弟子と称する男たちにかしづかれて生活しているが、そいつらは魔女の魔法のせいでちょっと頭がいかれてるのだ。以前その中の一人が、村の子供に乱暴して火傷を負わせたことがある……

要約すればそんな話だった。俺は魔の森やそこに出る悪霊の話は知っていたが、魔女の話は初耳だった。でもおもしろそうなのは最初だけで、次第に男が似たような恨み言を繰りようになると、すぐにうんざりして、右から左に抜けはじめた。

あとはあくびを噛み殺してうなずきながら、調理場の匂いにつられて晩飯の献立を考えてた。仕事中は客がどんなにつまらない話をしようと、不条理なことを言おうと、否定はしない。言いたいことを言わせて不満のはけ口になるのも料金のうちだ。もしも反省などされて、やっぱり呪術を使うのはやめる、などと言われたら困る。

しばらく親身になって耳を傾けるふりをしたあと、いい頃合いを見計らって、手のひらほどの大きさの人型の紙を差しだした。

それに呪いたい相手の名前を書かせて、客本人に釘で刺すなり叩かせるなり、破くなり焼くなり、好きなようにさせる。文字が書けないなら、ただ相手のことを思い浮かべながらバツ印を書くだけでもいい。

この挙動不審なろくでなしはかなり興奮しているし、うまくいけば、物も売りつけられるかもしれない、と思った。割ると悪夢を呼ぶクルミの実なんてどうだろう? 本当は市場で買った普通のクルミだが……。

しかし、男は紙を突き返し、「そんな子供騙しをするつもりはない。あんたらは、金さえ払えば、本当に他人の人生を狂わせるような呪いもかけられるんだろう?」

そう言って金貨をちらつかせ、リチェの髪を渡してきた。

それは銀糸のような、一本の白髪である。

チタニアに来てから、一日おきにしか客がつかないような日々が長いことつづいていて、その男は三日ぶりの客だった。その日は夏の終わりの肌寒い晩で、急な寒さが、いまだに夏物の服を着ている身にしみた。冷気が吹きこまないよう家々は固く木戸を閉ざし、夜道を歩く人影もまばらだ。さえない暮らしに身をやつして鬱憤の溜まっている人間は多そうなのに、うさん臭い憂さ晴らしに興じる余裕などないほど、不景気なようだった。

俺は金の心配をしはじめていた。その男の話にのれば、一気にその問題は解決できる。

俺は髪の毛を受け取ると、前金をもらって、さっそく準備にとりかかった。
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3章 迷いの森 (4/8) ~ 魔の森の魔女

 

 

森の手前で馬車を降りると、迷ってももとの場所に戻れるように、木の幹に包帯で印をつけながら森の中を進んでいった。うわさで聞いていたとおり、ここでは方位磁石の針はぐるぐるまわってしまって使いものにならず、はっきりとした道らしいものもない。

しばらくすると、思いのほか早く、それらしき人家が見えてきた。薄暗い森を背に、木々の切れ間から差す陽光と舞い落ちる落ち葉の中に建つ、小さいながらしっかりした石造りの家である。

家の前では男が三人、数え歌を歌いながら、仲よく長縄跳びをしていた。縄の一方をカエデの木に結び、もう一方は赤毛の女の子が持ってまわしている。それがなんだか、大人が子供の遊びにつきあっているというより、子供が子供もどきの大人のお守をしているようで異様だった。縄を飛んで歌っている男たちは、どいつもこいつも楽しそうな阿呆面だ。

すぐそばの苔むした岩に、額の禿げあがった男が一人座って、まぬけな歌を聞き流しながら黙々と本を読んでいた。額が後退しているせいで、ここにいる男たちの中では一番歳をくっていそうに見えたが、書物に目を落としている神経質そうな横顔だけ見ると、まだ中年と呼ぶには早そうだ。

俺が木の影からふらふらと近づいていくと、肉を揺らしながら縄を飛んでいた小デブが最初に気づいて、「ひい!」と声をあげて逃げだした。

「セト!」

だれかがそいつのことをそう呼んだ。気分は最悪で、自分でも酷い顔になってるのはわかる。いきなり逃げるなんて、よっぽど恐ろしげな顔をしてたんだろう。ほかの連中も歌うのをやめ、そろってこっちを振り返った。さっきまでの笑顔は消えている。

「リチェに会いたいんだ」

しゃがれ声でなんとかそう伝えると、赤毛の女の子が縄を放して近寄ってきた。

「おじさん、病気なの?」

おじさんなんて言われるような歳じゃないんだが、やつれているから老けて見えたんだろう。ターコイズブルーの目をしばたかせて、真下からのぞきこんでくる。心配そうというよりは、驚いている顔だ。ふと、この子の顔はだれかに似ているな、と思った。

「ララ、先生を呼んでこよう」

さっきまで本を呼んでいた男が近づいてきて、怪しい来訪者から引き離すように女の子の手を引いた。

ララって、どこかで聞きいたような名前だ。

それから、ふいにヴァータナでの記憶がよみがえった。

この子に似てる赤毛の女……、めったにお目にかからないような美人だったからはっきり顔を覚えてる。そうだ! 彼女、ララって名前の娘がいるって言ってたような気がする。チタニアの森に住んでる母親に、あずけてあるって言ってなかったっけ?

「おまえは……」

ティミトラの娘か!? ──と言いかけたところで咳きこんでしまった。ついでに血ヘドも吐いたので、そこにいる全員がのけぞった。

ララは家にむかって大声をあげた。

「おばあちゃーん! また迷子ー」

「お通ししてあげて」

黄色いハート形の葉とツタに縁取られた家の窓から、年寄りの声がした。
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3章 迷いの森 (5/8) ~ 森から出られない

 

 

魔の森では初め、借りてきた猫のように大人しくしていた。可能な限り従順に、品行方正に振る舞った。伯父の屋敷にいたときに、そういう技術は身につけている。すべては、リチェから森を出る許可をもらうためである。奉仕して改心したそぶりさえ見せていれば、すぐに許可が下りるだろうと、甘く見ていた。だから最初のうちは、あんな約束をしてしまったことに危機感は感じていなかった。

ところが一週間経っても、二週間経っても、森を出る許可は下りなかった。小手先だけの改心だということを見透かされていたのか、償いが足りないと感じていたのかは定かではない。両方かもしれない。実際、取り入る努力はしていても、反省なんてほとんどしていなかった。

リチェに証明しろと言われても、俺の魂が腐っているかいないかなんて、はっきり言ってどうでもいいことのような気がしていた。日常生活にはなんら差し障りのないことだ。人間なんてそもそも清浄な生き物ではないんだし、生き抜いていくために多少汚くなるのは当然だ。それが悪いとも思わない。でも、もう呪術が使えないのなら、森を出られたとしても呪術師はつづけられない。俺が本気で反省していようがいまいが、どっちにしろ足を洗わざるを得ないのだ。

それとも、ばあさんにとっては俺が反省してるかどうかなんて、本当は大して重要ではないのかもしれない。森にいても、とくに俺になにをするというわけでもなかった。別にしつこく説教をたれて教え導こうとしているわけでもなく、囚人のようにこき使うわけでもなく、変な気があるわけでもなさそうだった。毎日毎日、従順で気色の悪いほかの弟子たちと同じく、規則正しい生活をして、軽い労働をさせられるだけだ。

そうしてなんの変化のきざしもあらわれないままひと月も経つと、さすがにあせりが出てきた。リチェはこちらがどう振る舞おうと許しをあたえる気など最初からなくて、俺という労働力をこの先一生手放さないつもりなのではではないか? リチェはばあさんとはいえ、あと十年や二十年は生き長らえるだろう。少しぐらいの償いなら仕方がないにしろ、それまで待ってるなんて冗談じゃない。俺がなにをしようと、結局ばあさんはなんともなかったのだから、そんな刑期は割にあわない。

そしてある日、とうとう約束を破って脱走を試みた。鎖につながれていたわけでも、一日中監視されていたわけでもなかったので、やろうと思えば簡単だった。約束をしたということ以外、物理的な拘束はなにもなかったのだから。

なに喰わぬ顔で家を出ると、まっ昼間から人目を盗んでもと来た方向へと歩きだした。ここに来たときに木の幹に結んでいった目印の包帯が、まだ残っている。それをたどっていけば、森の入り口からリチェの家までは大した距離ではなかったはずだ。

来たときにはまだ緑色だった木々は、すっかり赤茶や黄色に変わり、高い空に向かって燃えるような枝葉を広げていた。足もとでは黄金色のカエデの落ち葉が、やわらかな絨毯のように地面を覆いつくしている。木の葉の中でカサコソと音をたてながら、ヒキガエルが跳ねている。

行けども行けども似たような景色がつづき、森の終わりは見えて来なかった。それどころか、印にそってまっすぐ進んでいるはずなのに、同じところをぐるぐるまわっていることに気づいた。見覚えのある岩や大木が、また前方からあらわれたのだ。どこかで行く方向を間違えてしまったのかと、今度こそ慎重に歩を進めると、また出くわす。少し怖くなってきて、後戻りをはじめると、リチェの家はすぐに見えてきた。

家の裏口から少し離れたところで、リチェが一人でたたずんでいた。暖かそうな毛織りのショールに身を包み、天に両手をかざして、仰ぎ見ている。冷たい風にそよぐ一本の葦のように、あいかわらずその背筋はすっと伸びている。

「なにしてるんです?」

近づいていくと、落ち葉が払われた黒い土の上に、白い砂で魔法陣が描かれているのが目に入った。術をかけている最中だったようだ。リチェは手を下ろして振りむいた。強い真昼の日差しが、切り詰めた白い髪をまぶしいくらい照らす。

「外の空気を吸ってるの。ここのところ書斎にこもりきりだったから」

「これは?」

「ただの落書きよ。あなたこそなにしてるの?」

「散歩です」

「いい天気だから、散歩にはもってこいね。今セトとウルマが昼食を作ってるわ。そろそろ、お腹空いたんじゃない?」

リチェはそう言って、ひんやりと澄みきった秋の青空を見あげた。家の煙突から、ほんわかと白い煙がたなびいている。

なんて緊張感のない脱走だろう。
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3章 迷いの森 (6/8) ~ マヌの神話

 

 

リチェの家のまわりは、いくらか木が切り倒されて開けた土地になって、そこには小さな畑があり、鶏や山羊なども少しいて、自分たちの食卓に並ぶだけのわずかなものだが、収穫することができる。

しかし、冬が訪れ、畑が雪をかぶって放っておくしかなくなると、弟子たちは土の下の根菜や、それまでに蓄えてきたもので暮らし、太陽が出ている短い昼のあいだは、ソリ遊びや雪合戦に興じていた。家では書物を読んだり、縫い物をしたり、リチェがいつもやっている写本作りを手伝ったりもする。

一番弟子のカシムだけは、日がな一日リチェと書斎で作業しつづけることが多くなり、面倒な顔料の調合も、色つきの飾り文字や挿絵を写すのもお手のものだった。春になれば、そうした写本を馴染みの商人のもとに売りにいって、現金を得ることもあるらしかった。

うさぎの一件があってからはララからも避けられるようになってしまい、俺に構うのはリチェと、頭のネジが緩み気味のイフィーという弟子だけだった。うっかり外に出ると、雪玉を投げてくる。暇なのでやり返してみたりもするのだが、引き際というものを知らないので、こちらが飽きて魔法で失神させるまでやめない。

俺が何度目かの脱走に失敗した夜、リチェは寝室でマヌ人たちの神話を、弟子たちに語り聞かせていた。リチェは色々な土地の神話や昔話、自作の寓話などを毎晩一話ずつ語った。

寝室には星空模様の群青色の天蓋がついたベッドが六つ、孤児院さながらに並んでいる。それぞれの持てる個人的な空間は、その天蓋の中しかなかった。それでも俺以外はだれも不平を漏らさない。弟子たちはなんでも分かちわうから一人だけの持ち物なんてほとんどなかったし、自分からあえて秘密を作ろうとはしないようだった。

弟子とララで五人、リチェは自分の個室で寝ているのに、大部屋の寝室には最初から六つのベッドが置かれていた。不思議に思ったのでカシムに聞くと、森に迷いこんだ人間が病気や怪我で治療が必要なときはベッドがいるから、一つ余分に置いてあったのだという。数があわないことに気づいたときは、なんだか最初から俺用に用意されていたようで気味悪かったが、そう言われてみればその通りだ。

冬の夜は長く、曇ったガラスのむこうでは、連日雪がちらついていた。寝物語を聞くにはあまりにも大きくなりすぎた男たちが、少年のように目を輝かせて、母のように慕っているリチェの話に耳を傾けている様は、部外者から見るととても滑稽だ。時にはそれが哀れにも見え、虫酸が走って殴りたくなったりもする。

俺は天蓋を閉めきってふて寝していた。部屋の中央に置いた椅子に座って話しているリチェの声が聞こえてくる。
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3章 迷いの森 (7/8) ~ 魔女の正体

 

 

リチェの意識はすぐに戻ったが、体調のほうはよくならなくて、倒れてからはほとんどベッドで寝たきりになってしまった。日を追うごとに衰弱していき、食べ物を受けつけなくなった。砂糖の入った紅茶を一口二口すするだけで、ベッドの上で体を起こしているのさえ辛そうだった。一度少し持ち直したときは、めずらしく弟子たちのためにクッキーを焼いたりもしていた。が、そのときも、結局すぐにまた倒れてしまった。

二度目に倒れて意識を取り戻したとき、リチェはララと弟子たちを一人ずつ枕元に呼びよせた。俺が呼ばれたのは一番最後だ。そこでリチェから言われたのは、まったく予想もしないことだった。ララのことを大事な届け物と一緒に、ヴァータナにいる母親のもとまで送り届けてほしい、というのだ。

「なんで俺なんです? 普段から兄貴ぶってるんだから、こんなときこそカシムにやらせればいい」

リチェは話しているあいだ、ずっと重そうな頭を枕に埋めたままだった。このひと月のあいだに憔悴しきって、ぐんと老けこんでしまっている。ベッドの上に力なく横たえた腕は枯れ枝のように細く、その手はあらためて見ると、古い羊皮紙のように萎びてシミだらけだった。声も小さく張りがないので、いつものような鋭さは感じられない。

「カシムには家のことを頼んである。あの子は物心ついたときから、この森の中の暮らししか知らないし、ほかの子たちもそう──外でうまく立ちまわっていくには、ちょっと純情すぎるのよ」

「先生は純情と未熟を取り違えてる。三十過ぎてそんな使いもできないなら、問題ありですよ。奴らをそんな腑抜けに育てあげたのは先生なんですから、責任取ってあいつらに頼んでください。それに、あっちだってそれでいいって言ってるんですか?」

「ええ、もう説得したわ。あなたよりも旅慣れてるカラスに任せる、と」

「ほかもそれで納得したんですか?」

「そうよ」

俺は困惑して頭を掻いた。

「俺は納得してない」

するとリチェは以前した約束を引っぱり出し、

「ここに来たとき、『償いをする』と言ったはずよ。助けてあげたこと、忘れたわけじゃないでしょう?」

あのとき償うと言ったのは、とりあえず命乞いするためだ。

「『私が許すか死ぬまで、森を出られない』とも言ってましたよね。先生が死ねば俺は自由の身になる。そしたらすぐに森を出ますよ。一人で」

「あなたに人の心があるなら、そんな酷いことはできないはずよ」

偉そうで恩着せがましい言い方だ。

「俺がいなくなれば、だれかほかの奴がやるでしょう」

俺は厄介ごとを押しつけられる前に部屋を出て行こうとした。ここを出られたら、森の住人とはすっぱり縁を切って、食っていくために、なにか新しい仕事を探すつもりだった。とりあえずは、どこかの農場の臨時雇いでもするか、呪術を使わなくてももとの旅暮らしに戻れるような、うまい仕事があればいいのだが。

自分のことだけでも手一杯なのに、そのうえ子供のお守りをしながら遥々ヴァータナまで行くなんて冗談じゃない。森育ちの子供を外に連れ出したら、なにもかも一から教えるはめになるだろう。途中で嫌になって置き去りにするくらいなら、今断っておいた方が親切ってもんだ。そんなしち面倒臭いことは、世話好きな奴にやらせておけばいい。

「カラス……」

ドアノブをつかんだところでリチェの声がした。どんな罵倒を受けても振り返らないつもりでいた。……が、後につづいたのは想像していたのとは全然違う言葉だった。
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3章 迷いの森 (8/8) ~ 二人ぼっちの旅

 

まだ雪の溶け残った森を抜け、一番近くの集落で宿をとった。森の外に出たのは半年ぶりだ。やってきたころはまだ初秋だった。今は初春だ。

半年ぶりに酒場に入って酒を飲み、切らしていたタバコを買って吸った。でも半年間待ち望んでいたのに、どちらも期待していたほどうまいと感じなかった。魔の森からでられれば自由を謳歌できると思っていたのに、森から一歩踏みだしても、心の中にはなんの感動も起こらなかった。

ひさしぶりの人里で、以前していたように振る舞っても、ちっとも自由になった気はしない。娼婦でも買ったら気が紛れるだろうかと思ったが、いい女を見ても気持ちが盛りあがらない。

酒場で働いてる女の子に「具合が悪そうね」と話しかけられたので、「半年間魔の森で暮らしてて、たった今戻ってきた」と話すと、冗談だと思ったようだ。

森のほとりで暮らす農民たちのあいだには、魔の森には迷い人を導く賢者が住んでいる、という言い伝えがある。でも俺が本気で賢者の話をすると、「それはただの昔話で、迷信なんだ」と酒場の客は口をそろえて言う。

魔の森に住んでるという賢者をだれも見たことがないし、あそこはとても人の住めるようなところじゃない。俺の話を酔っぱらいのほら話だと思って、だれも信じない。

挙げ句の果てに、もし作り話じゃないなら、森の悪霊にたぶらかされて幻でも見たんじゃないか、なんてからかってくる。

俺は思った。

「おまえらこそ、幻なんじゃないか?」

真顔でそう言うと、それまで話していた客は顔色を変えて逃げていった。まるで話しているうちに相手が狂っていることに気づいたみたいに。

正直、自分でも疑ってしまいそうになった。が、手にはリチェからもらったユニコーンの角が確かに残っていた。

すぐに村を出て、魔の森に戻った。リチェの家についたのは真夜中で、ドアをノックするとカシムが出てきた。左頬が見事な青痣になっていたので、ぎょっとした。奴は幽霊のような顔をしていて、始終一言も言葉を発しなかった。

ララやほかの弟子たちは、だれ一人俺の心配などしていなかったようだ。ベッドの中で眠そうに体を起こし、暗がりで俺の姿を確認すると、やっと出ていった厄介物が帰ってきてがっかり、という顔をした。俺が凍えるような寒さの中、悪霊に惑わされて殺されそうになっていても、だれも暖かい部屋を出て探しにはこない。ドアを開けてもらえただけ、ありがたいことなのだろう。イフィーは起きてさえこない。すやすやと眠りこけている。この馬鹿はリチェが死んだってことを、まだ理解していないんだろうか?
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