11章 デビルズ・マッシュルーム (1/3) ~ 快楽主義者

11 デビルズ・マッシュルーム

 

 

やわらかな光の網が、白いドーム型の天井でゆらゆら揺れている。天窓から射しこむ光が、プールの水面に反射しているのだ。室内プールのある寝室は薄暗いので、小さな天窓から光の帯がさしているのがよく見えた。夜のうちに水面に浮かべたロウソクの火は、もう燃えつきている。今は朝だ。

広いベッドの上では、黄金色の髪の美女がなにもかけずに裸で仰向けになっていた。銀の皿に注いだ蜜のように輝く髪を広げ、何十個もの宝石をつなぎあわせた豪華な首飾りを、乳白色の肌に直接身につけている。それでも女の青い目は、死んだ魚のように生気がない。なめらかなサテンのシーツを背に、まるで目を開けたまま眠っているかのように、光の踊る天井を見つめている。

「生きてるか? アデリーナ」

隣で一緒に寝ていたリュンケウスは、女の顔の上で手をひらひらさせた。もう五十過ぎているが、歳の割に節くれ立っていなくてシミもなかった。力仕事をしない手だ。彼はもう何十年もまともに剣を振るっていない。かわりに伝票をつけるための羽根ペンを持ち、上等な保湿油を毎日欠かさずすりこんでいる。リュンケウスは商人だった。間違っても昔のように、自分の身を危険にさらすようなことはしない。

「今のところ」

とアデリーナは答えた。

彼女はもうじき三十になる。まだまだ容色は衰えていないし、色気なら十代の頃より磨きがかかったくらいだが、踊り子としてはもう若くはない。

「またなにか企んでるのか?」

アデリーナはそう言われて、やっと話し相手のほうに顔をむけた。

「『また』ってなに? 企んだことなんてあった?」

「また俺になにか買わせようとしてるんじゃないか? 今度はなにが欲しい」

リュンケウスはなんでも買えるぞ、と言わんばかりに笑った。とにかく金ならうなるほどあるのだ。『愛だ恋だと面倒なことをほざく女より、金で買える女のほうが正直でいい』彼は以前そう言った。

「そんなんじゃないわ」

アデリーナは少し不満げに答えて、また上をむいた。

「朝は嫌いだなって思ってただけ。夜のほうが好き」

「どうして?」

「夜になったらなにもしないで寝るだけだけど、朝になったら嫌でもベッドから起きだして、働いたり、いろいろ考えたりしなきゃならないでしょ? だから嫌い」

胸にのせた大粒のエメラルドを、青いマニキュアをつけた指先でもてあそぶ。リュンケウスは腕枕をしてその仕草を見ていた。

生きるということは、炎天下で氷に彫刻するのと似てる──近頃アデリーナはそんな風に感じていた。たとえば、ある人間にあたえられた一生を、巨大な氷の塊だと考えてみる。生まれた瞬間からそこに思い出を刻みはじめ、ただの塊は次第に様々な形の彫刻になっていく。でも、冷たさに耐えながらどんなに懸命にノミを入れても、塊はどんどん融けてき、どんな形の氷像も最後には跡形もなく消えてしまう。氷から手を離して休めるのは、死んだあとと眠っているときぐらいだ。

「朝になっても、ずっと寝てればいい。俺がいればほかの客をとる必要はないし、ベッドの上で一日中なにも考えないでいればいい」

アデリーナは不可能なことを言われて、背中をむけた。

「私は考えちゃう人なの。あーあ、ずっと眠っていたい。日がのぼったときから沈むのを待ってる。毎晩寝るために生きてるようなものよ。そんな風に毎日繰り返して、最後には死ぬの。不思議よね。なんのためにがんばってるんだか」
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11章 デビルズ・マッシュルーム (2/3) ~ 悦楽の庭で

 

 

リュンケウスは十頭もの馬をつないだ大きな荷馬車にとっておきの新商品をのせ、トゥミス皇帝の待つ水の宮殿へとむかった。

宮殿は街を見下ろす小高い岩山の中腹にある。山を登る坂道は岩壁を切り崩して整然と舗装され、斜面にはオリーブの木が植わっている。眼下には、四角い形をした白い家々がひしめき、からりとした強い日差しを照り返して目もくらむほどだ。

宮殿に近づくにつれ、波にたゆたう水草のように奔放な一本の笛の調べが、かすかに聞こえてきた。

絡まりあうツタの形をした金色の門をくぐると、木漏れ日の降り注ぐ幻想的な庭園が広がっていた。

瑞々しい青葉のむこうに、コバルトブルーのタイル張りの宮殿があり、ドーム型の屋根がまぶしく輝いている。その壁面は精密な幾何学模様を描いたモザイクで覆いつくされ、まるで青い宝玉で作りこまれた貴婦人の宝石箱のようだ。

この宮殿は元老院とはまったく関係のない皇帝の私邸だった。庭も建物もそれほど大きくはないが、その分どこをとっても皇帝の趣向があますことなく詰めこまれている。

庭園内には山の傾斜を利用してつくられた噴水が無数にあり、大理石で彫られた魚の口や、人魚の乳房からほとばしる水しぶきが、いたるところで小さな虹を作っている。水は張り巡らされた水路を通って滝となり、中央にある睡蓮の池へと注ぎこむ。

池のほとりの大きな柳の木からさがったブランコに、妖精のような絹の羽をつけた目を疑うほど美しい少女が座っていた。それを揺らしているのは、頭に鹿の角をつけたこれもまた小さくて愛くるしい少年だ。この子供たちは、庭を飾るためにそこに置かれている、生きた彫像だった。ほかにも何人か、人魚やケンタウロスの仮装をさせられた小さな奴隷たちが、ただ主人の目を楽しませるためだけに庭を行き来していた。ブランコが揺れるたびに、妖精の子の背丈より長そうなふわりとしたスカートが、優雅に宙を舞う。

すべての光景が、浮き世の甘美さを高らかに謡いあげ、生きることの愉快さを、あらためて思い出させてくれるようである。

遠くから聞こえていた笛の音は近づき、甘く、まどろむように、来訪者の耳をくすぐっては、悦楽の庭に溶けこんでいった。

笛の主は、睡蓮の池の中に建つ石の東屋にいる。横笛をかまえて立ち、自分の世界に陶酔していたが、客が飛び石を渡って近づいてくるのは気づいたようだ。

「やあ、リュンケウス」

「ご機嫌うるわしゅう。皇帝陛下」

リュンケウスは洗練された身のこなしで宮廷風のあいさつをした。知らない者が見たら、だれも奴隷出身者だとは気づかなかっただろう。

「いつもながら素晴らしいお手前で。気をつけないと、音楽の神も陛下に嫉妬するでしょう」

若き皇帝はそれを聞くと、ふっと一笑し、

「それはないな。俺が音楽の神なのだから」と言った。

アフロディアス帝はしばしば髪の色を染め変えるが、今日はやわらかな巻き毛を、かなり奇抜な薄桃色に染めていた。横笛を持つ腕は、うっすらと青い血管が透けて見えるほど白く、華奢である。これほど光あふれる庭にいるのに、生まれてから一度も日に当たったことがないような肌色をしていた。

そんな見た目通り、彼の体は虚弱だ。日なたに何時間もいると、肌が赤くなって、火傷のような炎症を起こしてしまう。そのうえ骨折しやすい体質とかで、初代の軍人皇帝だった父親が剣の稽古をつけようとするたびに、死にそうな目にあって、親の期待を裏切りつづけた。
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11章 デビルズ・マッシュルーム (3/3) ~ 白昼夢劇場

 

 

数週間後、リュンケウスは頼んでおいた仕事の進行状況を確認するために〝白昼夢劇場〟を訪れた。

劇場の正面は白大理石の広い階段になっていて、半裸の女神の形をした柱が、張り出した天井を支えている。階段の前に馬車を横づけすると、出入り口の前で、裸足で垢まみれの男が、演説口調でわめき散らしていた。

「おまえらは全員、〝悪魔のペニス〟に犯されてる豚だ! 暴君を殺せ! 悪魔をトゥミスから追い出せ!」

たぶん悪魔のキノコのことを言っているのだろう。近頃多い薬物中毒者のようなので、客は避けて通りすぎている。すぐに劇場の中から強面の従業員が出てきて、男を人気のない暗がりへ連れていった。

それから、座長の用意していた案内役があわてて馬車の前に駆けつけた。

「見苦しいところを、申し訳ございません」

用意されていた席は、二階にある観劇用の特別室だった。舞台のまっ正面のちょうどいい位置にある。観劇のための部屋なので暗くてこじんまりしているが、馬蹄型に並んだほかのボックス席よりは少し広く、壁は深い緋色の布張りだった。入り口の横にある金縁の鏡も、裸のニンフをかたどった象牙の燭台も、しつらえられた調度品は、享楽的な雰囲気を煽る贅沢なものばかりだった。舞台にむけられた赤いビロードのソファーの横に、酒を置ける小さな象眼細工のテーブルがある。

演目は『プリモス古城の戦い』。同じ話でも、演出家によって微妙に異なる版がいくつもあり、今回のは三日前に公開されたばかりの新作だった。客の入りはいい。

劇中では、リュンケウスは勇敢で才知あふれる英雄として描かれ、グレナデンは馬鹿で見栄っぱりな野蛮人だった。イスノメドラはそんな二人の男を同時に誘惑する妖艶な魔女だ。

グレナデンが魔女に骨抜きにされているあいだに、リュンケウスは残忍な悪の権化キルクークの居場所を突き止め、たった一人で壮絶な戦いを繰り広げる。

乱闘シーンの立ちまわりは見物だ。オーケストラの演奏も緊迫感があっていい。

リュンケウスがキルクークの首をはね、勢いよく血糊が吹き出すと、観客から歓声があがった。

幕が下りると、座長のプルートスが部屋に入ってきた。ひどい肥満にスキンヘッドの醜男で、まぶたが腫れぼったく、目に光がない。首の後ろの肉がだぶついているところなど、見るに耐えない。でも今日は彼に用件があってここに来た。

「いかがでしたか先生?」

座長はリュンケウスのことを敬称で『先生』と呼ぶ。が、べつに師弟関係ではない。政治家を先生と呼ぶのと同じだ。彼が座長になる前にやっていた仕事で、少しばかり貸しはあるが。

リュンケウスは拍手しながら言った。

「素晴らしい!」

演劇はトゥミスの華だ。生活のための労働が奴隷や非市民の仕事になってから、この都市では余暇のある市民のあいだで、芸術や文学など様々な文化が一斉に花開いた。中でも演劇は、絵画・音楽・服飾・文学、そして時には科学も、あらゆる分野が集約された総合芸術だ。

「脚本家が話したがっているのですが。今人気の若手です」

「構わないよ、通しても」
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