最終章 ユニコーン (1/3) ~ 無邪気な世界

19 ユニコーン

 

 

目の前がまっ暗で、なにも見えない。

だれかが私を呼んでいる。

必死の呼びかけに、答えようとするのに、声が出ない。体も動かない。

呼んでいるのはだれだろう?

なんとかして目を開けようとして、急に光が見え、目がくらんだ。

「ララ、大丈夫?」

そう心配そうに声をかけてきたのは、セトだ。

まぶしさに目が慣れてくると、気遣わしげに覗き込んでいるセトの表情が、はっきりとわかった。その背後には、赤や黄色に色づいた木々が、青い空にむかって宝石のような枝葉をのばす、懐かしい森の景色が広がっていた。温かな昼の日差しが、セトの金色の髪と、ふっくらとしたバラ色の頬を照らす。セトは絞ったばかりの山羊の乳の入ったバケツを脇に置いて、地面に倒れているララの隣に膝をついてかがんでいた。

「うちに帰ってきたの……?」

ララが寝ぼけた声を出すと、セトは驚いて、

「帰ってきたって、最初からここにいるよ! ほんとに大丈夫? 転んだ拍子に頭を強く打ちすぎたのかも」

ララは体を起こし、すっきりしない頭をさすってみた。手を見ても、血がついたりはしていない。

「怪我はしてないみたい」

「先生に見てもらう?」

「大したことないよ」

そう言って、土や木の葉を払いながら立ちあがると、生い茂った草のあいだで動きまわっている白い生き物が目に入り、はっとした。

「チッチだ!」

小さな白い毛玉のような仔ウサギが、家の裏手の薪割り場のほうにむかって、飛ぶように走っていく。抱いていたのが、転んだときに逃げたのだ、と思った。押し潰してしまわなくてよかった!

ララはチッチを追いかけていって捕まえた。首に赤いリボンを巻いて、両手にすっぽり収まってしまうほど小さい。絶えず動いているピンク色の鼻と、愛らしいつぶらな瞳を見て、ララはにやにやした。

それから、切り株に斧が突き立てられたままになっているだれもいない薪割り場に目をやると、なにか妙な感じがした。
山羊の乳の入ったバケツを持ってあとを追ってきたセトに、ララは不思議そうな顔をして、

「今日はだれも薪を割らないのかな?」と言った。

「先にやったほうがいい仕事がほかにあったんじゃない」

「だれがやる日だったんだっけ?」

「さあ」

なにか忘れてるような気がする。なんだっけ?

ララは手の中でウサギが動きまわっている感触で我に返り、チッチのことを少し撫で、まあいいか、と思った。チッチはすごく元気そうだ。ちょっと前まで怪我をして元気がなかったのが嘘みたい。

山羊の乳を台所に置きに行くと、おばあちゃんが鍋で煮込み料理を作っていて、ぐつぐつと沸き立つ鍋から、食欲をそそられるいい匂いがした。山羊の乳を少し飲み、後は予定通り、ベリーを集めるために外に出た。
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最終章 ユニコーン (2/3) ~ 黒い城の王

 

  * * *

 

アシュラムはうずくまって頭を抱えていた。

目を閉じて、呼吸を整え、乱れた心を鎮めようとする。

しばらくして顔をあげ、カラスの姿がなくなっていることに気づいた。

血痕が床の淵までつづいていた。リュンケウスのほうを見ると、自分の靴とズボンに飛び散ってしまった返り血を気にしている。

「落としたのか?」

責める口調だったので、リュンケウスは振り返って、

「もう勝負はついてました」と言った。

「とどめを刺してやろうと思ったのに」

あのままじゃ、苦しんで死ぬ。

「放っておいても、すぐ死にます。お見事でした」

そう言うと、彼は磨きあげられた革靴についた血を、神経質に拭いはじめた。

アシュラムは立ちあがって刀の血を拭い、鞘に収めた。それからカラスが蹴った刀を拾いにいった。

鞘から少し刀身を抜き、白銀の輝きを確かめる。鏡のような刃に、疲れきった緑色の目が映りこむ。

湖畔で刀の使い方を教えてやったときのことを思い出した。さんざん嫌味ばかり言っていたくせに、あのときは俺に憧れてる少年みたいな目をしてたっけ。刀のほうも、子供の遊びみたいだったな……。

彼には気の毒なことした。

もの思いに耽っていると、リュンケウスが声をかける。

「後悔なさってるんですか?」

「いいや」

アシュラムは刀身を鞘に収め、また帯にさし直した。

そのときまた一つ大きな建物が倒壊したので、リュンケウスは映しだされた影のほうにむき直った。

「あれは──ダリウスの劇場だ! ハハハッ、これでもう座長はつづけられないな。いい気味だ」

もう劇場から逃げる人影はなくなっていたが、正面の石段には、舞台衣装を着たままの死体が転がっていた。

「せっかくなんだから、ほかの街の様子も映しましょうよ」

興奮した口調で彼は言う。その表情は生き生きとしていて、劇場で喜劇を楽しんでいる観客となんら変わらない。

アシュラムは無表情のまま、また玉座の肘かけに座り、総仕上げの呪文を唱えた。自分の口から出る呪文は単なる言葉でしかないが、同じ言葉を神王が口にした途端、魔法になる。クレハが呪文を復唱すると、街に降り注ぐ砲撃が止まった。

まだ混乱した人々の声は聞こえてくるが、爆撃音が止んで急に静かになった。

リュンケウスが異変に気づいて振り返った。

「どうして攻撃を止めたんです?」

「もうこれくらいにしとこう」

リュンケウスはもの足りない様子だが、

「それじゃあ、次の計画に移りますか」と言った。

「いや、いいんだ」

アシュラムの態度の変化に気づき、リュンケウスは不審そうに問いかけた。

「『いい』とはどういうことです?」

「世界中にあるプリモス兵器を一つ残らず無効にした。もうどの銃の引き金を引いても光線は出ない。爆弾も爆発しない。全部ゴミになった」

武器商人は一瞬言葉を詰まらせ、相手の言葉の真意を計りかねたようだった。さっきまでの興奮がみるみる引いていく。

「そんなことができるなんて聞いてない」

「言ってないからな」

「話が違う。理想の国を作って王になるんじゃなかったんですか? もうすぐ夢が叶うんですよ。それを仲間を殺したぐらいで、動揺してあきらめるんですか?」

プリモスの翼が空から堕ち、地面に激突する音がした。アシュラムは笑った。
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最終章 ユニコーン (3/3) ~ あたたかい手

 

  * * *

 

長い夢から目が覚めた。

最後に見えたのは、リュージュの屋敷の鉄門だった。あの花壇には、今でもだれかが花を植えるのか? それとも、もうとっくに潰されてしまっただろうか。

カラスはぼんやり天井を眺めたまま、しばらく自分がだれなのか思い出せなかった。

斬られて、落とされて、体がなくなってしまってから、不思議なオーロラの中で、無数の魂が、自分の中を過ぎていったからだ。

そのとき見えたのは、さまざまな人間の生々しい記憶の断片だった。それらの思い出は、外から聞かされる単なる出来事としてではなく、すべてが自分の内に起こったことのようにはっきりと感じられた──怒りも、恐怖も、喜びも、遠い日につないだ手の感触や、靴の中に入ってしまったほんの些細な小石の痛みまで……。あらゆるものが流れつき、流れでていくその岸辺では、すべてのものが我が身の一部だ。

 

それから、潮の香りのする風が、たった今本当に鳴いている海鳥の声と波音を運んできて、ようやく、自分がいる場所を思い出した。

ここはザレスバーグ近くにある海辺の小屋だ。

古城で死にかけてから、今はじめてはっきりと目覚めたが、自分が得体のしれない怪物になってしまったときのことや、そのあと起こったことは、すべて知っていた。

俺はアシュラムを飲みこもうとして──結局、そのとき口に入ったアノマニーの血のせいで、呪術が解けて、すぐにもとの体に戻ってしまったのだ。

それから、ララが俺を揺り起こそうとし、怪我をして気絶していたアシュラムを叩き起こした。それでもずっと眠りっぱなしだった俺を、二人は苦労して城から運び出し、また人間らしい服を着せ、街の混乱を避けて、この小屋に寝かせてくれた……。

 

ここは以前ララを置いていった小屋に似ていたが、同じではない。まわりは薄い木の板を並べただけの壁に、釣り竿や網などがかかっていて、まだ新しそうな小舟と、魚の干し網などがあった。いくつかある雨漏りしそうな天井の隙間からは、木漏れ日のようにやわらかな光がさしこんでいた。扉のない出入り口のむこうに見えるのは、まぶしい砂浜と、どこまでも広がる青い海だけだ。

俺はまたマヌケなドジを踏み、命がけの呪いに失敗してしまった。けれど、全然がっかりはしていない──ほんの少しも。

カラスはもとに戻った自分の手を見あげた。不思議なことに、斬られた怪我も、ずっと消えなかった腕の傷痕も消えている。

横をむくと、砂の上に敷かれた毛布の上で、ララが寝息をたてていた。バラ色の頬をした愛らしい寝顔を、赤い巻き毛が縁取っている。息をするたびに体がかすかに上下して、その唇にははっきりと瑞々しく血の気がさしていた。

苦しいほど胸が高鳴る。

思いきり抱きしめて笑いだしたい気分だったが、ララが気持ちよさそうに眠っているから、やらない。

生きているのをもっと確かめたくて、起こさないようにそっと触れてみる。

その手は、とても温かかった。

ララは少し触れられただけで目を覚ましてしまい、眠そうにまぶたをこすりはじめた。

カラスは傷痕のなくなった若々しい青年の顔いっぱいに心からの笑みを浮かべ、

「おはよう」と言った。

ララも嬉しそうに、「おはよう」と返す。

たぶん、こうしているうちにも、外は酷いことになっている。

でも今は、猛吹雪のなか、温かな暖炉の前で過ごす安らかなひと時のようだった。

今はただ、この温もりを分かちあっていたい。

きっともう俺たちは、迷い子を導くユニコーンや、幻のような不滅の星や、狼なんかに、道をたずねる必要はないだろう。

もう大丈夫だ。

これからは俺たちの力で、道を切り拓いていくのだ。