0章 彼女の正義 (5/9) ~ 思いがけない恋

 

グレナデンは、この大陸の遥か北の、文明の香りも尽き果てるオーロラの森からやってきた。その森での暮らしぶりは、聞けば聞くほど、街の常識など通用しない、驚くべきことの連続である。

雪と白夜の支配する北限の地で、トナカイの放牧や狩猟を糧とする彼の部族では、男児は仕掛け罠以外の方法で狼を一匹狩るまでは一人前と認められず、本当の名前をあたえられなかった。グレナデンは投げ網と槍を使って仕留めたというその狼の牙で作った首飾りを実際に見せてくれ、その前までは自分は長いあいだ、ただ『赤毛』と呼ばれていたのだ、と言った。そして、そんな土地では、聞いたことを紙に書くという習慣自体もないので、グレナデンは今でも文字を読み書きすることができない。

森を出て傭兵として暮らしてきた期間も長かったはずだが、戦場の話は、どこで戦って勝った負けた、と言う程度で簡単な話しかしなかった。子供の頃から放牧のためにテント暮らしをし、厳しい自然が人の命を奪っていくのを見てきた彼にとっては、野営地のテントも、死が身近にある生活も、さほど馴染みにくいものではなかったようだ。

一方、故郷のチタニアの森の話となると、まるでその情景が目に浮かぶように、熱のこもった調子で事細かに話す。

彼らは布ではなく毛皮だけの服を着て、家財や食料はソリに積み、スキー板を履いてトナカイの群れをまとめながら、冬は南へ、夏は北へと、長い長い距離をそのたくましい足で滑っていく。道中にはトナカイをねらう獣があらわれることもあり、狼が群れのまわりをうろついているあいだは、一晩中自分も獣のように叫んで威嚇しながらスキーで走りまわっていなければならない。

さらに危険は獣だけではなく、土地そのものにも潜んでいる。凍てつくような風が吹きつける丘陵に登ると、雪の下に隠れていた氷の割れ目に人が落ちてしまうことがあり、底が浅くて人がすぐ気づけば縄で引き上げるが、時にはだれにも気づかれないまま死んでしまうこともある。

青く冷たい氷の裂け目の中で、遠くの空を眺めながら一人で死を待つのは、どんなに恐ろしく、心細いことだろう。

グレナデンは子供のころに一度、そんな氷の割れ目に落ちてしまったことがある。一人きりで歩いていたときで、泣き叫んでもだれも気づいてはくれなかった。落ちただけで死んでしまうほど深い割れ目ではなかったが、足を痛めてしまい、長いあいだ氷に切り取られた小さな空を見上げて、助けを呼びながら待っていた。

やがてあたりは暗くなり、足は腫れあがって、涙もでなくなった。その夜、グレナデンはその青白い氷の底から、緑色に揺らめくオーロラが夜空の闇を彩るのを見た。

その荘厳な輝きは、肉体から離れた生き物たちの魂が、空により集まって踊るときに、ぶつかりあって発せられるのだと、森の人々は信じていた。その魂とは、もちろん死者の魂のことでもあるが、動物や木や川に宿る精霊でもあり、眠っているうちに夢を見ながらさまよう人間の生き霊でもある。

大地が雪に覆われて、しんと静まり返った夜更け、ありとあらゆるものの魂が空高く舞いあがり、光り輝く生と死の波打ち際を作って、一つになるのだ。

トナカイの番をしながらでも、テントで休んでいるときでも、そうする余裕があれば、オーロラにむけて歌を返すのが慣わしだ。文字を持たない人々が、大切なことを覚えたり伝えたりするのに、歌は大事なものだった。明るく大きく揺れ動いて、威勢のよさそうなときは元気のいい歌を、うっすらと刷毛で撫でたようなときはしっとりと優しく、また血のように赤い色をしているときは、血を流して死んだ者たちがうめいているので、なぐさめるような歌を歌う。

極北の森では、死者の霊は天国には飛び立たない。それは普段、だれかが死んだ氷の割れ目や雪の下、その人の子孫のまわりや空の上など、この世のどこかに漂っていて、時折オーロラの光を通して生きている者に語りかけるのだ。

グレナデンは塞ぎこむのをやめ、氷の裂け目のむこうに見えるオーロラへ、自分をこの世へ残していった祖先たちの霊にむかって、大声で歌った。それから少しずつ、まだ小さな魔法の火を使って氷壁に足場を作り、足の痛みを我慢して、自力で這いあがって生還した。最後まで生身の人間はだれも助けにはこなかったし、だれの力も借りなかった。

そんな、この世とあの世の境もあいまいな、最果ての地からやってきた男の不思議な話に引きこまれ、イスノメドラはすぐに彼と会うのが楽しみになった。いろいろな話の中でも、とくにお気に入りだったのは、何度目かの連れだった外出の時に聞いた、夏至の祭りに焚く巨大なかがり火の話だ。

それはみなで魔法の炎を出しあって作るかがり火で、火柱は古い杉の巨木より高く、夏を過ごす谷にはさまれた湾の、かなり沖合からでもはっきりとわかるという。谷間は麗しい緑が生い茂って生命があふれだし、太陽は真夜中を過ぎても沈みそうで沈まず、水平線の近くをゆっくりと横滑りしながら、しっとりとした光で湾の海面を満たす。その夜でも昼でもないような美しい薄明かりの中で、火の魔法を持つ人たちは炎の中に飛びこんで、呪術師の太鼓にあわせて、燃えながら踊る。

部族には炎を操ることができる人がたくさんいたという。厳しい寒さの中、自らの炎で自分を温められる者が生き残った結果そうなったのだろう、とグレナデンは言った。街では火の魔法はなにかを焼くために使うばかりだが、オーロラの森では冷たい雨や雪に濡れて凍える仲間の体を温めたり、凍傷を癒したり、何日もつづく闇夜を照らすために使うことのほうがずっと多かった。

「想像するだけで素敵ね。やっぱり、故郷は懐かしい?」と聞くと、グレナデンは笑って、

「あそこにいたときより、今のほうがずっと楽しい」と言った。

そして星のきらめく夜の東屋で、二人は初めてキスをした。

 

それからあとは驚くほど早く距離が縮まっていった。二人が婚姻の日取りを決めるまで、ひと月もかからなかった。
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