0章 彼女の正義 (6/9) ~ 甘い生活

 

 

しかし新しい暮らしが実際にはじまってみると、イスノメドラは一度は捨てたはずの豪奢な生活にまた戻ってしまっていた。庭師の手入れする美しい庭園と、めずらしい魚を泳がせた小さな泉のある豪邸に住み、食事は毎回住みこみの料理人が作ってくれるものを食べる。グレナデンの持ち前の明るさのおかげで新婚生活は楽しかったが、その暮らしぶりはイスノメドラにとっては不本意なものだった。

でもすべてグレナデンの金で賄われているため、今度はなにもかも勝手に売り飛ばして慈善事業に費やすわけにはいかない。結果、自然の成りゆきで、夫の成り金趣味につきあうことになった。彼は浪費家で、なにをするにもお金の使い方が半端じゃない。普通に暮らせば一生暮らしていける財産があっても、この調子だと一生はもちそうになかった。イスノメドラは進んで贅沢をすることこそなかったが、もう以前のようにボロを着て道端で野宿することはなくなっていた。

 

ある夜、イスノメドラが「お金はもっと、困っている人達のために役立てるべきだ」と言うと、グレナデンはこう言った。

「君は他人のことより、もっと自分の幸せのことを考えたほうがいい。前に全財産を投げ打って恵んでやった結果どうなった? やつらは君からパンをもらったって、それを糧に自分の力で明日のパンを手に入れようとするどころか、明日の分のパンもよこせとせびるだけだった。だれもが君の純粋さに胸を打たれて生き方を変えるとは限らないんだよ。なにをされたって感謝しない奴は感謝しないし、もっと悪くなると、俺が不幸なのはおまえの力不足のせいだ、とでもいわんばかりだ。しまいには、恩を仇で返して踏み台にしようとするやつもいる」

グレナデンは腹立たしげだった。恩を仇で……の後は、イスノメドラを〝乞食の女王〟と呼んだ輩に対して、というよりも、リュンケウスのことを言っているようだった。彼は今、自分たちよりもずっと小さな家で地味に暮らしている。

「また前みたいにパンを配り歩いたって、解決できるのは、何人かのその日の飯の問題だけだ。1000 万シグを 1000 万人に1シグずつ配ったって、なにも変わらない。もっと確実に人の運命を変えるにはどうしたらいいか、わかるか?」

「どうするの?」

「ふさわしい人間を一人選んで1000 万シグやれば、そいつの人生は変わるだろう」

「ふさわしい人間?」イスノメドラは繰り返した。

「俺みたいにね」

イスノメドラは象牙色の繻子の夜着一枚で、広いベッドに横たわり、夫の浮かべる魅惑的な笑みを見あげていた。彼の背後には、ゆるやかな曲線を描いた白い天井があり、その天井いっぱいに、淡い光の網がゆらゆらと広がっているのが見えた。寝室の半分がプールになっていて、水面の波紋がロウソクの光を反射しているのだ。

眠りにつくまでのあいだ、よくこうして光の網の下で、たがいに触れあいながら話したものだった。ベッド脇にあるモザイク模様の小さな丸テーブルの上には、透けるほど薄く削られた瑪瑙の杯があり、飲みかけのワインが残っている。イスノメドラが毎晩酔うほど飲むようになったのは、彼とつきあうようになってからのことだった。

「俺は森を出たとき、金なんか1シグも持ってなかった。そこらの物乞いより貧乏さ。でも、今ここにいる。そのために必要なことをしてきたからだ。人の手を借りたこともあるが、俺もそいつらが得するようになにかしてやったし、君みたいな人に助けてもらいたいなんて思って、お恵みを待ってたことなんかない。自分のけじめは自分でつけるもんだ」

それから一呼吸置いて、

「放っておいたって、自然が人間をふるいにかけてくれる。芽が出る種と、出ない種。──出ない種はそこで終わるのが運命だ」

そう言い放つグレナデンの瞳は、氷山の氷のように青く冷え冷えとしていた。それから少し声をやわらげ、

「君は今だって俺の支えになってくれてる。俺の女神様だ。悪く言ったやつらが許せないよ」と言った。

以前なら、他人からこんなことを言われても、怒って猛抗議していたかもしれない。でも今は反論できるだけの確信を失ってしまい、そうしたいとも思えなかった。自分自身、彼らのせいで自分がとても傷つき、疲れていることを自覚していた。純粋に他人の役に立ちたいと思ってやったことが、惨憺たる結果に終わったのだ。

イスノメドラはテーブルに手をのばして、残りのワインを飲み干した。過去の苦汁を飲み干すように、熱い液体がのどを通り過ぎていく。杯に手をのばしたときに、夜着がはだけたが、見られているのを承知で、直さなかった。グレナデンのターコイズブルーの瞳が、こちらにむけられている。──意識するとそれだけで体が熱くなり、喜びを感じていいる自分に、戸惑った。

「君は綺麗だ」

彼に言われるようになるまで、自分が綺麗だなんて、考えたこともなかった。同じことを言われたことが、全然なかったわけじゃない。でもいちいち真に受けたりはしなかったし、自分が多少でもその気になって、こんな風に振る舞うようになるなんて夢にも思わなかった。
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