0章 彼女の正義 (8/9) ~ 知りたくもないこと

リュンケウスは戸惑いながら、探るように、震える肩に手をそえた。悲しみで冷えきった心には、その手が雪をとかす太陽のように、温かく感じられた。グレナデン以外の男性に、そんな風に触れられるのは初めてだった。

「こんなことを言ってもなんの慰めにもならないだろうけど、しばらく別々に暮らして距離を置いてみたら、冷静になれるかもしれない。

もし嫌じゃなかったら、落ち着くまで部屋を貸そうか? 空いてる客間を自由に使っていい。君の家ほど立派じゃないけど、宿屋よりは快適だし、今朝みたいな奴らに絡まれる心配もない」

いくら部屋は別だといっても、人妻の自分が彼の家に入り浸るのはまずいのではないか。グレナデンは出かけていったきり、どこで夜を過ごしているのかわからないことがしょっちゅうあるけど、こんなことはよくないことだ。彼が私を愛していなくても、私は彼を愛しているのだから!

リュンケウスの顔をよく見ると、緊張している様子で、少し赤らんでいる。まるで少年のよう。グレナデンと違って、彼なら優しくしてくれるかもしれない。自制しつづけていないと、今にも寄りかかりたくてたまらなくなる。リュンケウスのことを、これっぽっちも愛しているわけじゃないのに。

「君は結婚してから、なんだかぐっと魅力的になったよ。なんて言うか……性格が丸くなったっていうか、すごく綺麗になった。そのドレスもよく似合ってる。もっと自分に自信を持っていいんじゃないかな。男はあいつだけじゃないんだし……」

ドレスのことを言われて、グラフィスの言っていたことを思い出してしまった。

──見ろ、このドレス。こんなに胸もとを開けて、まだ男に媚び売ろうとしてる。おまえはたかり女だ。売女め。

そしてリュンケウスの灰色がかったうす青い瞳から、熱のこもった男の視線を感じ、現に彼のことを男として意識している自分にも気がついた。

「触らないで!」

イスノメドラはリュンケウスを突き飛ばして、拒絶した。

「ごめんなさい。やっぱり、まっすぐ帰るわ」

「失礼なことをして悪かった。でも悪気はなかったんだ」

彼がなかなか馬車を止めようとしないので、ドアを開けて、走っている馬車から飛び降りた。

「私、どうかしてるの!」泥まみれになって、半狂乱で叫ぶ。

リュンケウスが急いで馬車を止めて降りてきた。しとしとと降りつづく雨が、彼の上等な服を濡らしてしまう。イスノメドラは走りだした。

「イスノメドラ!」

背後で声がしたが、一度も振り返らなかった。

一心不乱に走り抜け、家に着いても、幸か不幸か、グレナデンの姿はなかった。もし帰ってきても顔をあわせたくなかったので、汚れた体も洗わずに部屋着に着替えると、使ってない客間のベッドで毛布を頭までかぶって、祈るような思いで目を閉じた。

全部夢だったらいいのに……。
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