森の手前で馬車を降りると、迷ってももとの場所に戻れるように、木の幹に包帯で印をつけながら森の中を進んでいった。うわさで聞いていたとおり、ここでは方位磁石の針はぐるぐるまわってしまって使いものにならず、はっきりとした道らしいものもない。
しばらくすると、思いのほか早く、それらしき人家が見えてきた。薄暗い森を背に、木々の切れ間から差す陽光と舞い落ちる落ち葉の中に建つ、小さいながらしっかりした石造りの家である。
家の前では男が三人、数え歌を歌いながら、仲よく長縄跳びをしていた。縄の一方をカエデの木に結び、もう一方は赤毛の女の子が持ってまわしている。それがなんだか、大人が子供の遊びにつきあっているというより、子供が子供もどきの大人のお守をしているようで異様だった。縄を飛んで歌っている男たちは、どいつもこいつも楽しそうな阿呆面だ。
すぐそばの苔むした岩に、額の禿げあがった男が一人座って、まぬけな歌を聞き流しながら黙々と本を読んでいた。額が後退しているせいで、ここにいる男たちの中では一番歳をくっていそうに見えたが、書物に目を落としている神経質そうな横顔だけ見ると、まだ中年と呼ぶには早そうだ。
俺が木の影からふらふらと近づいていくと、肉を揺らしながら縄を飛んでいた小デブが最初に気づいて、「ひい!」と声をあげて逃げだした。
「セト!」
だれかがそいつのことをそう呼んだ。気分は最悪で、自分でも酷い顔になってるのはわかる。いきなり逃げるなんて、よっぽど恐ろしげな顔をしてたんだろう。ほかの連中も歌うのをやめ、そろってこっちを振り返った。さっきまでの笑顔は消えている。
「リチェに会いたいんだ」
しゃがれ声でなんとかそう伝えると、赤毛の女の子が縄を放して近寄ってきた。
「おじさん、病気なの?」
おじさんなんて言われるような歳じゃないんだが、やつれているから老けて見えたんだろう。ターコイズブルーの目をしばたかせて、真下からのぞきこんでくる。心配そうというよりは、驚いている顔だ。ふと、この子の顔はだれかに似ているな、と思った。
「ララ、先生を呼んでこよう」
さっきまで本を呼んでいた男が近づいてきて、怪しい来訪者から引き離すように女の子の手を引いた。
ララって、どこかで聞きいたような名前だ。
それから、ふいにヴァータナでの記憶がよみがえった。
この子に似てる赤毛の女……、めったにお目にかからないような美人だったからはっきり顔を覚えてる。そうだ! 彼女、ララって名前の娘がいるって言ってたような気がする。チタニアの森に住んでる母親に、あずけてあるって言ってなかったっけ?
「おまえは……」
ティミトラの娘か!? ──と言いかけたところで咳きこんでしまった。ついでに血ヘドも吐いたので、そこにいる全員がのけぞった。
ララは家にむかって大声をあげた。
「おばあちゃーん! また迷子ー」
「お通ししてあげて」
黄色いハート形の葉とツタに縁取られた家の窓から、年寄りの声がした。
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