3章 迷いの森 (5/8) ~ 森から出られない

 

 

魔の森では初め、借りてきた猫のように大人しくしていた。可能な限り従順に、品行方正に振る舞った。伯父の屋敷にいたときに、そういう技術は身につけている。すべては、リチェから森を出る許可をもらうためである。奉仕して改心したそぶりさえ見せていれば、すぐに許可が下りるだろうと、甘く見ていた。だから最初のうちは、あんな約束をしてしまったことに危機感は感じていなかった。

ところが一週間経っても、二週間経っても、森を出る許可は下りなかった。小手先だけの改心だということを見透かされていたのか、償いが足りないと感じていたのかは定かではない。両方かもしれない。実際、取り入る努力はしていても、反省なんてほとんどしていなかった。

リチェに証明しろと言われても、俺の魂が腐っているかいないかなんて、はっきり言ってどうでもいいことのような気がしていた。日常生活にはなんら差し障りのないことだ。人間なんてそもそも清浄な生き物ではないんだし、生き抜いていくために多少汚くなるのは当然だ。それが悪いとも思わない。でも、もう呪術が使えないのなら、森を出られたとしても呪術師はつづけられない。俺が本気で反省していようがいまいが、どっちにしろ足を洗わざるを得ないのだ。

それとも、ばあさんにとっては俺が反省してるかどうかなんて、本当は大して重要ではないのかもしれない。森にいても、とくに俺になにをするというわけでもなかった。別にしつこく説教をたれて教え導こうとしているわけでもなく、囚人のようにこき使うわけでもなく、変な気があるわけでもなさそうだった。毎日毎日、従順で気色の悪いほかの弟子たちと同じく、規則正しい生活をして、軽い労働をさせられるだけだ。

そうしてなんの変化のきざしもあらわれないままひと月も経つと、さすがにあせりが出てきた。リチェはこちらがどう振る舞おうと許しをあたえる気など最初からなくて、俺という労働力をこの先一生手放さないつもりなのではではないか? リチェはばあさんとはいえ、あと十年や二十年は生き長らえるだろう。少しぐらいの償いなら仕方がないにしろ、それまで待ってるなんて冗談じゃない。俺がなにをしようと、結局ばあさんはなんともなかったのだから、そんな刑期は割にあわない。

そしてある日、とうとう約束を破って脱走を試みた。鎖につながれていたわけでも、一日中監視されていたわけでもなかったので、やろうと思えば簡単だった。約束をしたということ以外、物理的な拘束はなにもなかったのだから。

なに喰わぬ顔で家を出ると、まっ昼間から人目を盗んでもと来た方向へと歩きだした。ここに来たときに木の幹に結んでいった目印の包帯が、まだ残っている。それをたどっていけば、森の入り口からリチェの家までは大した距離ではなかったはずだ。

来たときにはまだ緑色だった木々は、すっかり赤茶や黄色に変わり、高い空に向かって燃えるような枝葉を広げていた。足もとでは黄金色のカエデの落ち葉が、やわらかな絨毯のように地面を覆いつくしている。木の葉の中でカサコソと音をたてながら、ヒキガエルが跳ねている。

行けども行けども似たような景色がつづき、森の終わりは見えて来なかった。それどころか、印にそってまっすぐ進んでいるはずなのに、同じところをぐるぐるまわっていることに気づいた。見覚えのある岩や大木が、また前方からあらわれたのだ。どこかで行く方向を間違えてしまったのかと、今度こそ慎重に歩を進めると、また出くわす。少し怖くなってきて、後戻りをはじめると、リチェの家はすぐに見えてきた。

家の裏口から少し離れたところで、リチェが一人でたたずんでいた。暖かそうな毛織りのショールに身を包み、天に両手をかざして、仰ぎ見ている。冷たい風にそよぐ一本の葦のように、あいかわらずその背筋はすっと伸びている。

「なにしてるんです?」

近づいていくと、落ち葉が払われた黒い土の上に、白い砂で魔法陣が描かれているのが目に入った。術をかけている最中だったようだ。リチェは手を下ろして振りむいた。強い真昼の日差しが、切り詰めた白い髪をまぶしいくらい照らす。

「外の空気を吸ってるの。ここのところ書斎にこもりきりだったから」

「これは?」

「ただの落書きよ。あなたこそなにしてるの?」

「散歩です」

「いい天気だから、散歩にはもってこいね。今セトとウルマが昼食を作ってるわ。そろそろ、お腹空いたんじゃない?」

リチェはそう言って、ひんやりと澄みきった秋の青空を見あげた。家の煙突から、ほんわかと白い煙がたなびいている。

なんて緊張感のない脱走だろう。
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