18章 無駄な努力 (4/4) ~ どん底

 

 

床の下にはなにもなかった。

下から見あげると、入ってきた扉の先に床は見当たらず、鍵穴型の床が、なんの支えもなく空中に浮かんでいるのがわかった。

ここはこの世ではないようだった。かと言って、まだ痛みは残ってるから、あの世でもない。

中途半端で、宙ぶらりんな場所なのだ。

一歩間違えば、どっちにも転がる。

どちらか決める時はもう過ぎてしまい、今は底なしの闇の中を止めどなく落下していた。

明かりはないのに自分の体は見える。

傷口を押さえていないと、はみ出た腸が飛び出してしまいそうだった。

最悪だ。

恋人を無惨に殺され、友人にも裏切られた。

どうして、こんなことになってしまったんだろう?

人一倍用心してたはずなのに、なぜよりにもよって一番最悪な人間を信じてしまったのか?

気づくチャンスはいくらでもあったのに、取り返しがつかなくなるまで気づかなかった。

間抜けなのは今にはじまったことじゃない。両親や伯父、ありんこのときもそうだった。

正しい言い分を信じないで、間違った言い分を信じ、石は偽物だと気づかなかったし、銃を撃とうとすれば弾が出ない。仲間だと思ってたのは最低の奴で、守りたかったものは失ってしまった。

そんなボンクラな自分が嫌だった。この世から消えてしまいたかった。リチェの頼みを引き受けたときだって、もとはと言えば、俺はクズじゃないって証明したかったんだ。先生は死んでしまったけど、俺の魂は腐ってないって証明したかった。

なにか変わるんじゃないかと思ってた。

だけど、そんなこと、どうでもよかったんじゃないのか? 俺の人生なんてこんなもんだって、わかってたはずだ……。

苦悩も、痛みも、もうじき終わる。

長いような短いような二十二年の人生が、走馬灯のように浮かんでは……こない。

頭に浮かんだのは、みじめな少年時代でも、さまざまな美しいものや汚いものを見た長い旅の記憶でもなく、ここ数か月間のことだった。ララと過ごした楽しかった日々……。

それも永遠に失ってしまった。

カラスは指に絡んだ黒髪を握りしめ、呪いの言葉を口にした。

おまえを呪ってやる。

俺の苦痛を分けてやる。

さんざん苦しみ抜いて死ねばいい。

監獄塔にいた両目のない囚人みたいに、『殺してくれ』と言いたくなるまで苦しめばいい!

堕ちつづけ、自分の血と痛みを味わいながら、呪いの言葉を唱えつづける。そしてつかんでいた髪を、いつものように犬の死骸の口に突っこむかわりに、自分の口に突っこんだ。

ここには呪術に必要な道具もないし、魔法の効かない相手だが、神様でも悪魔でもなんでもいいから、俺の願いを聞いてくれ。

そのとき、不思議な声が話しかけてきた。

『呼んだか?』

耳元で囁かれているようにも、耳の中から聞こえるようにも感じる。

──だれだおまえ?

『私はおまえの〝憎しみ〟だ。おまえが呪いをかけるとき、私はいつもそばにいた。可愛い息子よ。私の牙にかかったときから、おまえは私のものだった。今まで何度も助けてやったのに。これは私を拒んだ罰だ』

カラスは薄れゆく意識の片隅で、失われた記憶の断片を取り戻した。

伯父の屋敷を抜けだして、裸足で森を逃げまわった夜、俺は狼に咬まれた。追っ手に見つからないように隠れた茂みの中に、狼がいたんだ。そいつは俺を助けてくれると言った。

やっと思い出した。先生が言ってた、俺に取り憑いてるとかいう悪霊の正体……

『また私を受け入れるなら、もう一度、おまえに生きる力をあたえてやる』

死にゆく体は黒い霧になり、服だけを残して、周囲の闇に溶けて消えてしまった。