8章 幼女と少女と女と老女 (2/3) ~ 馬と小さな鍵

どっと冷や汗をかいた。カラスの声だった。川に洗濯しに行ったのなら、もっと時間がかかると思ってたのに。

「………」

できることなら、この場から消えてしまいたい。

「ララだな? かくれんぼしてんのか? 足が丸見えだぞ」

カラスは笑っているようだった。ララはカラスがこのままなにも気づかずに通りすぎてくれることを祈った。が、祈りは虚しく、

「遊んだあとはちゃんと戻しとけよ」

カラスは乱れた毛布を整え直している。けどかくれんぼして遊んでいたわけじゃない。ララはさっきまで夢中になって嗅いでいたシャツの持ち主を前にして、恥ずかしくてたまらなかった。

「洗濯に行ったんじゃなかったの?」

「小雨が降ってきたから途中でやめた。洗ってある分はここに干す」

「別の部屋のほうがいいよ」

「ここのほうが洗濯紐を張りやすい」

カーテンの隙間から、カラスの様子をうかがった。足もとに濡れた洗濯物の入ったカゴが置いてある。ベッドを整え終わると、なにかに気づいたように、例の引き出しを開けた。たたんであったシャツがぐちゃぐちゃになって、紙束もバラバラだ。

「勝手に引っ掻きまわしたのか」

声だけでも怒っているのがわかる。やっぱり他人に私物をいじられるのは許せないのだ。

「別に、ちょっと見るくらいいいじゃない」

声がうわずりそうになるのを抑えて言った。このくらいのことで怒るなんて、そっちのほうがどうかしてる。

カラスはシャツをたたむために取り出して、また別のことに気づいた。そして乱暴な手つきで引き出しの中をや探ししてから、ララが恐れていたことを口にした。

「シャツのポケットに入ってた鍵盗んだだろ?」

盗むつもりなんてなかった。この場は引き出しの中をのぞいたことをうまく隠して、あとで見つからないように鍵を返しておくつもりだった。だけど、この状況で鍵を差し出したら、本当に盗んだとしか思われないだろう。

「鍵なんて見てない。どっかで落としたんじゃない?」

するとカラスは何事もなかったかのように、洗濯紐を天蓋の柱に結びはじめた。

追及されることを予想していたので、かえってこの反応が不気味だった。カラスは黙々と作業しているが、納得して責めるのをやめたわけではなさそうだった。心の中のいらだちが空気を通してびりびりと伝わってくる。

とっさにポケットに入れてしまった鍵は、普通の鉄の鍵とは違かった。白蝶貝がはめこまれた金の鍵だ。一体なんの鍵なんだろう? わからないけど、カラスの持っている物の中で一番高価そうなものだし、きっと大切なものなんだろう。

ララは恐る恐るカーテンから出た。洗濯紐はもう張り終わっていて、カラスはみんなの服を干しはじめていた。自分も手伝おうと、カゴから洗濯物を取り出した。が、カラスはそれに気づくと、ちぎれそうな勢いで洗濯物を取りあげ、カゴを自分の脇に引きよせてしまった。

耐えきれなくなって、ララはポケットから鍵を出した。

「ごめんなさい。盗むつもりじゃなかったの。見つかったら怒られると思って、隠してた」

カラスは鍵を見たが、受け取らずに作業をつづけた。

「ごめんね」

繰り返し謝っても、無反応だった。まるでだれもいないかのように、無表情で洗濯物を干しつづけている。

怒鳴られなかったときはホッとしたけど、これならはっきりと怒られたほうがずっとましだった。目の前に立ちふさがる沈黙という壁を前に、ララはどうしていいかわからず、泣きだしてしまった。

しばらくしてカラスが鍵を受け取ってくれたので、ララの表情が少し明るくなった。ところが、カラスは窓辺まで歩いていくと、鍵を外の茂みに投げ捨てた。ララはあ然としてしまった。

「もういらなくなった。欲しけりゃおまえにやるよ。拾ってこい」

外は雨が本降りになっていた。弟子たちが玄関から入ってくる音が聞こえる。

「欲しかったんだろ? 行けよ」

「ごめんなさい。そんなんじゃないの」

カラスはまったく取りあってくれなかった。

「ごめん……」

ララは泣きじゃくりながら謝りつづけた。カラスはようやく洗濯物からララに目をむけると、トゲのある口調で言った。

「そこで泣かれてると、迷惑なのがわからないか? 馬鹿どもがここに入ってきたら、責められるのは俺だ。邪魔だからさっさと離れろ」

ララはほかのだれにも見つからないよう、みじめな気分で寝室を出ていった。

そのあと、雨の中鍵を探し、夜みんなが寝静まっているうちに、『ごめん』と書いた紙と一緒に引き出しの中に返しておいた。カラスは読み書きが苦手なので、長ったらしい文章だと読めないのだ。

翌朝、カラスは許すともなんとも言わなかったけど、顔をあわせるといつものように冗談を言って笑い、普段通りに接してくれた。そしてそれ以来、そのときのことを話題にもしなくなった。

あれがなんの鍵で、あのあとカラスは鍵をどうしたのか? 今でも気になっているが、あのときのカラスの普通ではない反応を思い出すと、怖くて聞けなかった。
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